ジャズがメタルより危険な理由

か つて小泉氏が総理であった頃、自分がX−JAPANのファンであると明かされた。だが否定的な反応はほとんど無かったように私は記憶している。X− JAPANの代わりにメタル音楽のグループ、メタリカやメガデスを挙げてもやはりメディアや国民の反発は無かっただろうと思う。つまり私が見るところ、風 変わりな衣装やステージング、攻撃的な演奏や歌詞にも関わらずメタルを含むロックというのは「社会的に安全な音楽」と見なされているように思える。

一 方でジャズ演奏者やリスナーは一般には知的な人々とされるが、その割には社会から嫌われているようだ。例えば地方博などに行く。そこで流される音楽がジャ ズ中心ということはない。国の行事でも良いのだが、何故かジャズだけはあわないような気がする。クラシック、ロック、メタル、カントリー、演歌、Jポッ プ、こうした音楽は政府、社会、民衆に受け入れられているがジャズだけは仲間外れにされ、不当に低い「社会的評価」を受けているように思える。ジャズを演 奏する人や聴く人はジャズのアドリブ芸術としての高度さが原因と考えているようだが本当にそうだろうか?

私はジャズが民衆に受け入れられ ないのはジャズがブルースを基礎としているからだと思う。私が考えるジャズはブルーな音空間を創り、その中で演奏を展開する音楽だ。アドリブ内容以前の前 提として「ブルーな音空間」というものがある。ところでブルーな気持ちは誰でも日常的に感じるが、他人と共有したい気持ちではない。むしろ私的な時空間の なかで静かに楽しみたい性質を持っている。

一方で典型的な音楽芸術とされるクラシックにおいて表現される感情は喜び、怒り、悲しみといっ た非常に日常的なものだ。コードを基礎とした音楽でないためにとっつきにくいがクラシック演奏家が表現しようとする感情自体は非常にありふれている。これ はロックやポップ、そしてメタルにも共通した感情と言える。こうした日常的な感情を表現しようとする音楽は大衆あるいは社会に受け入れられる。何故なら、 喜び、怒り、悲しみといった感情はみんなで共有できる感情であり、共有することで共同体(国、社会、音楽ファンなど)の絆が深まるという「ポジティブな性 格」を持っているからだ。つまり組織やシステムにとって好ましい音楽なのだ。

対してジャズが創り出そうとするブルーな感情、ブルーな音空間はけっして大衆に共有されるものではない。むしろ組織を排し個人の私的空間を確保しようとする性格を持つように思える。例えばロックン・ロールのコンサートを考えてみよう。

「みんな、ハッピーかい?」
「イエー!」(観衆の声)
「声が小さい。アー・ユー・ハッピー?」
「イエー!」(観衆のさらに大きな声)
「OK、朝までノン・ストップだ」
「ワオー」(観衆の歓喜の声)

演出と言えばそれまでだが、演奏者と観衆が何らかのわかりやすい感情を共有することで初めてこうした演出が可能になるのも確かだ。一方でジャズの母体になったブルースのコンサートを考えてみよう。

「みんな、ブルーになったかい?」
「イエー!」(観衆は絞り出すように声を出す)
「次の曲はこれまでで一番ブルーな曲だ。落ち込んで家に帰って首をつるなよ!」
「ワオー」(観衆、お義理で声を出すが、その後黙り込む)

このようにブルースにおいてはブルーな音空間を共有することはあってもブルーな感情は共有されない。観衆一人一人がそれぞれの心の中で受け止め醸成するだけだ。観衆の間に連帯感は生まれないのだ。そしてジャズの基礎にはブルースがある。

結 局、ジャズが国に嫌われ民衆レベルでも受け入れられないのはジャズが創り出すブルーな感情がみんなで共有し楽しむ性格を持たないからだと思う。対してメタ ルはどれほど奇抜であろうと根本的な部分で観衆を取り込み、何らかのわかりやすい感情の共有を目指している。「感情なんてどうでもいい、ゼニやゼニ」とい う演奏者もいるだろうが、そうしたお金持ちになりたい、リッチになりたいという気持ちは若干下劣ではあるが誰もが持つわかりやすく共有できる感情であり、 当然ながら民衆が否定する理由はない。

ジャズやブルースというのは基本的な部分で共同体や組織にとって危険な音楽なのだ。それゆえにメタ ルが国や企業、民衆に受け入れられることはあってもジャズはけっして受け入れられない。国の行事でクラシックが使用されることはあってもジャズが使用され ることはない。これは演奏技術がどうこうという問題ではなくジャズが創るブルーな感情という共有できない情感を組織や集団が嫌うからだと私は考える。

そう、意外なことにジャズはメタルより「危ない音楽」なんですよ・・・