メジャーはマイナーより上である

野 球にメジャーとマイナーがあるように音楽にも長調と短調があり、メジャー・コードとマイナー・コードがある。野球においてマイナーはメジャーへの登竜門に すぎない。あくまで目的はメジャーに上がることにある。現在、制作されている音楽はおくとして実は音楽においても元々メジャーが主流でありマイナーは傍流 だったのではないだろうか?

例えばアフリカの部族社会や日本の村社会を考えてみよう。そこではメジャーな、つまり明るく陽気な音楽のほう が歓迎されるだろう。例えば、大きなカモシカが獲れたから祝う、あるいは秋になり豊作を祝う時、演奏されるのは当然、陽気な太鼓を叩いて景気づけをするタ イプの音楽だろう。あるいは隣の部族や村といざかいがおき、戦意を高めるために演奏される音楽も当然、太鼓を打ち鳴らす陽気な音楽だろう。何故かというと 明るく陽気な音楽を演奏することで、共同体のみんなの気持ちが一体化し結束が深まるからだ。

しかし生きている以上、何らかの悲しい事は必 ずおきるわけで、例えば家族が死ぬ、1ヶ月雨が降らない、病気がはやるなどは普通におきる。だが、そうした悲しい場面でマイナーの悲しい曲が演奏されるは ずだというのは現代人の思いこみではないだろうか?何故ならアフリカの部族社会にせよ日本の村社会にせよ今の私達から見ればギリギリの生活をしていた訳 で、悲しいなどという感情にひたっている余裕などなかったはずだ。取りあえず何があろうと今日、食べるものを確保し生き延びなければいけない。

日 本人にはピンとこないかも知れないが私がコンゴに行って発見した事の1つは一日一食何かを食べることすらおぼつかない人達がたくさんいるという事実だ。例 えば朝、キンシャサで泊まっていた安ホテルの近くのカフェで食事をとる。現地の人はコーヒーにカップ半分くらい砂糖を入れて飲んでいた。これは何故かとい うとカフェで朝食を食べることができる裕福な人たち(主に公務員)でも昼ご飯を食べる金銭的余裕が無いためで、ともかくカロリーをとっておかないと晩ご飯 まで持たないからだ。これがキンシャサ市内をうろついてるチンピラだともっとひどく一日一食がかつかつだった。そうしたチンピラがある意味ではコンゴの音 楽シーンを支えていた。彼らはミュージシャン予備軍だったし、また最新のダンスを見せびらかすのも彼らだった。では彼らが聞く音楽がマイナーな暗い音楽か というと正反対でひたすら明るく陽気な音楽だった。

つまり生活が苦しく悲しい事も多いからマイナーな音楽というのは現代社会の発想ではないか?原始社会であるほど逆に明るく陽気な音楽を求めるのではないか?

苦 しい、悲しいと感傷にひたれるのはある程度豊かな人たちだけであり、社会が原始的で生活水準が低いほど、明るく陽気な音楽を聴いて、ともかく今日を生き抜 く必要がある。つまりコンゴの音楽が底抜けに明るいのは上で挙げた例で言えばコーヒーに砂糖をどっさり放り込むようなものだ。甘いものが好きかどうかに関 係なくカロリーを取らないと今日、一日を暮らせないのだ。同様にコンゴ音楽がクソ明るいのも同じ理由からだ。マイナーな曲を聴いて感傷にひたっていては今 日を生き残れないのだ。

現代社会は豊かになり、音楽の「基本」を忘れてしまったと思う。つまり野球と同じで、音楽もメジャーが主流であり マイナーというのは克服してメジャーになるために存在したのではないか?ニューオーリンズにセカンドラインという音楽スタイルがある。これは元々は葬式の 際、陽気に楽器を演奏し街をねり歩いたことから始まったそうだ。従来は陽気な音楽を演奏することで死者の魂が天国にいけるよう祈るというアフリカ的風習と 解釈されていたと思う。

私にはむしろ悲しい、苦しい、つらいなどと感傷にひたる事が許されないアフリカ部族社会の伝統が北米に現れただけ のように思える。そういえば初期のジャズ、ニューオーリンズ・ジャズは明るく陽気だった。それが北上しシカゴのような都市部にジャズが広がった時にブルー な音楽へと変わっていった。