考える事、その危険性

私の趣味の1つはコンゴやアンゴラ音楽を聴き自分でも演奏することだ。この趣味はただの変人の行為ですむ。だが私にはもう1つ趣味がある。それは考えることだ。何か問題があり考える、あるいは何かの目的があり考えるというのでは無く、純粋に考えること自体が好きなのだ。

時 として思考が無限ループに落ちると同じ事ばかり数時間考え続ける。学生時代にそうした無限ループ状態に陥った私は腹がへったので下宿から2km先のスー パーに買い物に出かけた。買い物をすまして下宿に戻った私は買い物袋が無いことに気がついた。何故無いかというと、私はスーパーのレジで支払いをすませた 後、袋を受け取ることなく、スーパーの名前が入った買い物カゴをそのまま下宿まで持って返ったからだ。よく誰も注意しなかったものだ。このスーパーの買い 物カゴは洗濯用カゴとして使用された。個人的には得をしたがスーパーにしてみれば損が出た訳だ。

天気の良い初夏の日に海岸に出向き、松の 樹にもたれながら気が向くままに考える時、私はある種の快感と喜びを感じる。考えることは何でも良い、考える行為自体が楽しいのだ。昔、よく考えた事に何 故、内山田洋とクール・ファイブの名曲、中之島ブルースにおいて「泣いて別れた淀屋橋」なのかというのがある。この曲の歌詞は当然ながら、それながらの意 味を持つと思うのだが、いくら考えても別れる場所が淀屋橋である必然性がわからなかった。私はこれ以上、考えることに意味が無いという結論に達し、実際に 夜の10時頃、中之島から淀屋橋に向けて歩いてみた。そして、この歌詞は名曲にふさわしく固有名詞全てに意味があるという結論に達した。これは昔のサイト でエッセーにまとめて発表し多くの賛同を得た。

こうした事を海岸で風に吹かれながら考えることは何ら法律に触れないはずだが、残念ながら周囲の人はそういう風に見ず、「危険な人」が浮浪していると見なすことが多い。これは何故なのだろうか?

考えることを楽しむためには、まずきちんとした前提なり証拠が必要だ。何がきちんとした前提なのかをまず疑う必要がある。その上に論理を積み上げていくのだが、そうした行為は根本的な部分で社会の常識を疑うことになる。そうした行為は当然ながら社会から嫌われる。

現在の与党も国民が自分の頭で考えることを望んでいない。野党はもっと望んでいない。学者は素人が考える行為そのものを嫌っている。私は自分の趣味の1つが考えることであるのを長年誇りに思ってきたが、どうも世間の評価は全く違うということに最近やっと気がついた。

結局のところ、体制も反体制も、メディアも学者もコメンテーターも、そして一般国民も自分で情報を集め自分の頭で考える人が嫌いなのだ。私は知らぬ間に自分が日本社会に置いて「反社会的危険分子」になったことにようやく気がついたのだった。

だ が自分の頭で考えなければ、自分がそうした「危険な存在」と見なされていることにも気がつかなかっただろう。私は何十年と考えて、実は考えることそのもの が日本では反社会的な行為と見なされていることにやっと気がついた。だが、それは気がつかないよりはきっとマシなんだろう・・・ 何の根拠もなく私はそう 考えるのだった。