誰が物の価値を決めているのか?

物やサービスの価値をお金に換算する時、ある物あるいはサービスがどれだけの価値があるかを一体、誰が決めているのだろうか?それが牛肉やキャベツなどの場合は市場が決めていると考えて良いだろう。だがレストランでの料理の値段は市場原理で決まるのだろうか?

サ ン・パウロに行った時に泊まっていたホテルの近くに日本料理のお店があった。ホテル日航の前にあるお店というとわかる人もいるかも知れない。このお店はブ ラジルの魚を使った日本料理を出していた。出る魚はピラニアでありドラドだったりする。こうした魚はどこから来るかというとアマゾンではなくブラジルの奥 地にあるパンタナルと呼ばれる湖沼地帯だ。

日系ブラジル人の間では刺身や鮨ネタとして最高の魚はピラニアであるというのはすでに定説だっ た。鯛やチヌ(黒鯛)、ブリなどを持ち出すとせせら笑われるほどだった。私が行った頃は、さらに進んだ議論がなされており、アマゾンのピラニアとパンタナ ルのピラニア、どっちがうまいかを比較する所まで行っていた。土地柄を反映してかパンタナルのピラニアのほうがうまいと言われていた。パンタナルはサン・ パウロの北部にあるからより新鮮なものが入手可能という事情もあったのかも知れない。日系人を対象とする新聞は社説に近い扱いで味の違いを解説していた。 私が上に書いたサン・パウロの日本料理店に行った時はドラドと呼ばれる黄金色巨大魚の新鮮なのがあると板前さんが言うので、ドラドの刺身、みそ汁、唐揚げ など食べたが本当に美味しかった。

意外な事に淡水魚でありながら、ピラニアもドラドも寄生虫を持っておらず刺身で食べても問題が無いらし い。味も海の魚のそれであり川魚の泥臭さというのは全くない。河も巨大化すると海と変わらなくなるようだ。これは実はキンシャサに行った時も感じた。キン シャサはコンゴ河というアフリカ有数の大きな河に面している。この河がどれだけ大きいかというと対岸がかすんで見えないくらい大きい。フェリーでしか渡れ ない。そこで獲れた魚をスパイスにまぶし乾したものを行商のオバサン達が売っており、私は何回か朝ご飯として食べた。何という名前の魚なのか未だにわから ないが、うまかったことは印象に残っている。

もし日本でピラニアやドラド、あるいはコンゴ河で獲れる魚を出すお店があり、そこが1回の食 事に対し2万のチャージを要求しても私は不当だとは思わない。何故ならそうした魚が本当に美味しいことを知っているからだ。だが一般日本人は2万は不当だ と思うだろう。何故なら彼らはそうした魚の美味さを知らないからだ。同時に何を美味いと感じるかというのは結局のところ個人の好みであり、慣れ親しんだい つもの味だから良い、お金を払うに値すると考える人もたくさんいるだろう。そう考えるとピラニアの刺身が一皿5千円として、その値段が正当かどうかは誰に も判断できない。ピラニアを美味いと考える人は安いと思うかも知れないし、そうしたエキゾチックな魚など食べないという人にすればありえないほど不当な価 格となる。ちなみにサン・パウロでピラニアの刺身や鮨を食べてもやはり5千円くらいは取られる。

このように料理の値段、つまり価値なのだ が、それは市場原理では決まっていない。あなたが出された料理に対し、自分の好みで相応しい価値を決める。高いと感じれば二度と行かないだけだ。そして、 みんながあなたと同じように考えれば、そのお店は経営が成り立たなくなり潰れるだろう。そう考えないと何故、世界有数の魚好き民族である日本人がピラニア を始めとした世界に無数にある美味しい魚を食べようとしないのか、そして地球の反対側にあるサン・パウロ居住日系人達のピラニアへの異常なまでの愛着が説 明できない。

これが音楽とか楽器になるともっと極端で、私が偏愛するコンゴやアンゴラの音楽ソフト、それらは実際相当に高い値段で入手し ているのだが、一般日本人はただでも受け取りたくないだろう。そして私もまたJポップのCDをよりどり千枚ただでやると言われても断るだろう。何故ならゴ ミとして処分しにくいからだ。ここまで来ると、もはや物の価値の普遍性は無い、好みの普遍性があるだけだ。

そう、本当は私やあなたの目や耳そして好みの普遍性が物やサービスの価値を決めているんですよ。