こうして才能は潰されていく

前 のエッセーで朝日新聞で働いた10年間で頭がいいと感心する人に全く出会わなかったようなニュアンスのエッセーを書いたが、けっしてそんな事は無かった。 恐るべき独創性を誇る人たちは何人かいた。一人は電子計算室で採用されたNという人だった。当時、朝日はIBMと組んで新聞製作のコンピュータ化を進めて おり、その為の人材としてN氏は採用されたと記憶している。

電計室長の話だと、この人は大学在学中に新しいPCのアーキテクチャーを考え ついたらしい。だが自分で事業を興す気はなく、特許をアメリカ企業に数百万のお金+ハワイ旅行と引き替えに譲渡したのだと言う。ウインドウズとかマックと いったOSの話ではなく、根本的に新しいPCアーキテクチャーを思いついたというからスゴイ話である。電計室長もこの人が朝日新聞に採用されたことを不審 に思ったらしく「こいつは馬鹿だ。富士通やNECがウチに入社してくださいと家まで押しかけて頼んでるのに朝日を選んだ。電子計算室でどれだけ業績を出し ても役員にすらなれない。富士通やNECならはるかに厚遇される。アホだ、馬鹿だ」と語った。このN氏は同期入社だったので少し話をしたことがあるが、自 分の才能を誇るようなところはない謙虚な人だった。

問題は、これだけの才能を持った人が結局、日本社会の発展にほとんど寄与することなく、新聞製作のコンピュータ化に才能と時間を費やしたことだろう。ここまで独創的な才能の持ち主には違う待遇が用意されるべきと私は思うのだが、結局、新聞社の組織に埋もれてしまった。

話 は突如として私の恨み節になる。私に独創的な才能があったかどうかは不明だが、90年代サイマル・インターナショナルの翻訳者としてそれなりの仕事はした と思う。この関係は1997年10月にサイマルが経営不振から和議申請をするまで続いた。ちなみに現在あるサイマルは当時のサイマルの社名を引き継いだだ けの別会社だ。

何故、サイマルから指名されるだけの英語力を持つことができたかというと、中学生という早い時期に「自分は日本社会におい て必要とされてない」ことに気がついたからだ。中学生の私はすでにアフリカ音楽にのめり込んでおり、当然ながらクラスメートとの会話はほとんど成り立たな かった。それは別に構わないのだが、そうしたアフリカ音楽へのこだわりを持っている限り、日本社会ではまともに受け入れられないだろうとボンヤリ感じた私 は当時は趣味レベルだった英語の勉強を意図的に強化した。日本社会からはじき出されても英語で食べていけるだけの力が必要だと感じたからだ。同時に、この 頃から兄の精神病が悪化し始めたという事情もある。

この傾向は大学に進学した後、加速した。何しろ私は単位を取るために必要な時間以外を アフリカ音楽を聴くことにあてており、もはや日常会話が成り立たないのだ。私が興味を持っていることと周囲の人の関心事が全く異なり、重なり合う部分がほ とんど無いためにお天気の話くらいしか話すことが無かった。

結局、私は学部きっての変人として就職期を迎えることになった。そして40数 社に志願署を出し、全滅した。正確には全滅した訳ではなく、ある英字新聞を受けた時に「もし広告主を回る営業職で良ければ、この場で採用してもいい」とい う非常に好意的な返事もいただいたのだが、その頃の私は営業を嫌っており、就職できなければ翻訳事務所の見習いとして働くつもりだったので、この話はその 場で断った。

その40数社は製造業からマスコミまで多種多様だったが1つだけ共通している点があった。それは履歴書あるいは家族関係を説 明する添付書類を出した時点で、全て不採用になった事だ。製造業の多くは1次面接でそうした文書を要求するために2次までいけた企業は1つも無かった。逆 にマスコミは採用ギリギリまでそうした個人情報を求めないために最終面接にまで残れた企業もあった。例えば日本経済新聞であり電通のような広告会社だ。

い ずれにせよ全て不合格となった訳で1月の時点でもはや何もすることが無かった。単位は全て取得していたので卒業するしかない。職を見つけるか無職になるか を緊急に選ばなければならなかった。だが働かないとお金という生活必需品がもらえない訳で聖徳太子、福沢諭吉を敬愛する私としては、どこか美味しい就職先 はないかと新聞の求人欄を読みあさった。

同時に私は兄が精神障害者というだけで就職できないのはおかしい、法律違反と考え、大学付属の相 談センターに行ったのだが、センターの主任(ある学部の教授)は「キミはうぬぼれている。左翼活動をやってる連中ですら普通に就職できているのに兄が精神 障害者というだけで不採用になる訳がない。ここに相談に来る前に自分の能力をわきまえたまえ」と非常に厳しい「アドバイス」を出した。要するに私は自分の 能力を過信する馬鹿であり、身にあった職(コンビニ店員?)を探せと言われたわけだ。この教授とは「オマエは世間を知らない」、「そういうオマエこそ学者 馬鹿だ」と言う激しい罵倒を何回か交わした。

理由は不明だが2月の末日に朝日新聞社に採用が決まった私は、この教授に報告にいった。そういうシステムだったからだ。だが教授はおらず、私は事務の女性に朝日から来た採用通知の電報を渡し、是非教授に見せてくれと頼んだものだ。今から思えば大人げない話だがw

で は何故、朝日だけが採用してくれたかというと新聞のコンピュータ制作に伴い、営業職でも数学がわかる者を採用しようという方針の下での追加募集であり、英 語・国語・数学という3つの学科中心の変則的な採用基準を使っていたからだ。今は脳がアルコール漬けになっているが当時は数学が文系にしては異様にできた 私は、採用試験のトップだったらしく、本音で取りたいかどうかは別にして朝日としては不採用にできなかったようだ。これは入社した後に、人事の人から「今 回の採用方針は完璧に間違いだった」と目の前で言われたのでほぼ間違いないだろう。ハッキリ言ってしまえば、当時の日本において私の才能、それがあるかど うかは別にして、それは全く必要とされてなかったのだ。

そして、最初に書いた電子計算室に採用されたN氏のことを想い出す時、日本社会は 独創的才能をつぶす点に置いては世界最高だなと思う。だが、きっと、この文を読まれたほとんどの人が「それはオマエの思い上がりだ」という感想を抱かれる だろう。だが20数年前に実質的に日本社会から切れた私としては、どういう評価をされようがかまわない。別に生活費を稼ぐのにマイナスになる訳でもない し、もはや社会の評価とは関係ない生活を今、送っているからだ。

さて今日のエッセーを書いたことだし楽器の練習をするか・・・