あまり幸せでない信者たち

今 日は2009年7月22日。昨日、衆議院の解散が決まったが町内でポスターをはってるのは民主党と幸せ党だけだ。民主党のほうは金澤さんという方の塀に 貼ってあるがメダマが2つの何を言いたいのか良くわからないポスターだ。幸せ党のほうは、町はずれの家の庭に棒を6本ほど立ててド派手にアピールしてい る。しかし幸せ党という割には、この家から幸せ感が伝わらない。墓地に近い狭い土地にゴチャゴチャと家を建てられてるせいか、むしろ障気すら感じる。その 家の前を何度か通るうちに昔の事を想い出したので書いてみよう。

私と同期入社で出版局編集部に配属された男がいる。S氏としておこう。本 来なら広告と出版編集は全く部署も仕事内容も違うのだが新人研修が終わった後も、この男とは結構、文学とか音楽の話題で意見交換した。S氏は翻訳のアルバ イトをして大学を卒業したという中々の英語の達人で話題があう仲間が欲しかったのかも知れない。新聞社だから外国語ができる人間がゴロゴロしてる訳では決 してないのだ。

ある日、朝一番の社内便で本が1冊送られてきた。それはどうも彼が自分で企画して手がけた最初の作品のようだった。さほど 期待せずに読み始めたが、この本は滅茶苦茶、面白く私は昼ご飯を食べ終わる頃には読み終えていた。私はさっそく彼に電話し「すごく良い仕事をしたね。今年 読んだ本のベスト10に軽く入るよ」と言うと彼も嬉しかったらしく「いいだろ、この人すごいよね」という会話を交わしたように記憶している。その本は景山 民夫さんの処女作「普通の生活」だった。私があまりに景山さんの文章のセンスを誉めたせいか、ある日電話がかかってきた。それは今週末、東京に出てこい、 そうすれば景山さんに会わせてやるというものだった。こちらに不満がある訳が無く、週末東京に出かけ景山さんと少しお話をすることができた。と言っても立 ち話だが(笑)。私は景山さんの独特のユーモアを高く評価していたのだが、ご本人はむしろシャイで人見知りするタイプの人のように見えた。

そ の後、景山さんは直木賞を取られるまで出世したのだが、正直私はその頃すでに興味を失っていた。たまたま東京出張が入り、出版局に顔を出した私はS氏に 会ったが、S氏も興味を持っていないようだった。その頃S氏は何人かの作家を担当していたのだが、その一人に村上Hさんもいた。彼は自分が手がけた村上さ んの新刊をくれ、「どう思う?」と聞いた。

彼は村上さんの本もずっと社内便で送ってくれていたが私はそれまで何も意見を言わなかったの だ。別に広告営業の意見を聞いても参考にならないだろうという考えも幾分かはあった。私は「感覚的新しさは評価する。だがトム・ロビンスとかピーター・ S・ビーグルとか70年代アメリカ・キャンパスでカルト的に崇拝された作家の小説設定を日本に移しただけで、のけぞるほどは面白くない」と率直な感想を述 べた。すると彼は「アメリカ人作家の影響云々を言うならトルーマン・カポーティだろ?」と意外そうな表情で反論を述べた。私が割と通俗的なファンタジー系 作家の名前を出したのが気にいらなかったのかも知れない。別に文学談義をするつもりは全くなかったので私は「そうかもね」と答え話を終了させた。

そ の後、私は煮詰まってしまい会社を辞めたのだが、その前に一度会った時のことだ。彼は自分の机の上に他社から出た村上さんのベストセラー「ノルウェーの 森」上下2巻を置いていた。「これ、どう思う?」と彼が聞くので「何か賞を取りたいという意欲は十分に理解できた。ここまで来たら読むに値しない」と酷評 した。すると彼は意外な事に************

会社を辞めた頃から、私はもはや文学そのものに興味を失っていき朝から晩までコンゴ 音楽に浸るという贅沢な生活をしていたのだが、ある日の朝刊を読んで驚いた。そこには景山民夫さんが自殺したと報道されていた。私は昔の電話番号を探し出 し、S氏に「これ、どういう事なの?」と聞いた。彼は何も説明しようとしなかった。私はすでに朝日新聞社とは喧嘩別れしていたし、社外の人間にはもはや喋 れないのかなと思ったが、事情は想像をこえてはるかに複雑だった。その顛末はウィキペディアにも書いてある。

“リッチでないのに リッチ な世界などわかりません   ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません  夢がないのに 夢をうることなどは……とても 嘘をついてもばれるものです ”という遺書を残し自殺した70年代伝説のコピーライター杉山登志のことなどを少し想い出してしまった。

幸せ教の信者が幸せとは限らない、ここにもまた1つの真実があるように思える。