ブラジルのタクシー事情

コンゴのタクシー事情に続き、ブラジルのタクシー事情である。

こ の一連のエッセーを読んでる方がどう思っているかは不明だが、私はそれなりに用心深い。キンシャサに行くときも事前に、何回か渡航した人から現地事状を聞 いた。正確には聞こうと試みた。あるバーで私はこの人に「キンシャサはどういう所ですか?」と聞いた。治安とか衛生面とか疫病に関する情報を少しでも集め ておこうと考えた訳だ。ところが、この人はグラスを傾け「キンシャサか・・・ あそこは天国だよ」と呟いたきり意識が飛んでしまった。こちらが「夜、歩い ても大丈夫でしょうか?」とか聞いても返事をせず、陶然とした表情を浮かべたまま黙り込んでしまった。という訳で私がキンシャサに行く前に集めた現地情報 はと言うと「そこは天国である」、これだけだった。

しかし、この人は別に嘘つきでは無く、現地のビアホールやバス停などで誰かが何かのメ ロディーを歌い出すと、すぐにアカペラのコーラスが始まるのは、現地で体験しない限り決して信じることのできない驚愕の出来事であり、その点に関してはキ ンシャサが天国というのは間違いでは無かった。問題はそれ以外の諸々にあったのだが・・・

その反省もあってブラジルに行くときは相当に情 報を集めた。特に日本とブラジルの友好交流市民団体を主催する人からは何度も話を聞いた。とりあえずTさんとしておくが、Tさんはタクシーに気をつけろと 何回も言った。リオには言葉がわからない外国人が乗ってきた場合、言葉と地理がわからないことにつけこみ、知らぬまに山間に入り込み、そのまま行方不明に なるケースが多数あるのだという。Tさんが何度もタクシーには気をつけろと脅したためにガレオン国際空港(リオ・デ・ジャネイロ市の国際空港)に降りた私 はそこから先、どうしたものかしばらく考え込んだ。気楽な一人旅だから宿泊ホテルはおろか帰国日も決まってなかったのだ。

とりあえず空港 の敷地内にある旅行客案内所に向かっている時、横を歩いている男と知り合いになった。私はその男に「オマエ、ホテル予約してるか?してなければオレがあそ この案内所で二人分取るからホテルまでのタクシー代を割り勘にしよう」と持ちかけると男は非常に旅慣れており「いいですよ」と即座に同意した。私が案内所 で二人分のホテルの予約(もちろん別室)をすると男は「助かりました」と謝辞を述べた。実はこの男は私より一回り大きい巨体の持ち主であり、私はボディー ガード代わりにしようと声をかけたのだが、男は勝手にホテルの予約をしてくれる親切な人と勘違いしたようだ。

私とこの男はタクシーに乗り 込んだ。当時、私は簡単な日常会話が可能な程度にはブラジル・ポルトガル語ができた。私はさっそく運転手相手に簡単な会話を始めたのだが、男は私が現地語 を話すことに驚き、そして安心したのか眠り込んでしまった。ガレオン国際空港から予約先のコパカバーナ(リオ南部にある高級住宅街および観光地)にあるオ テウ・アストリア(英語で言えばスター・ホテル)まで1時間近くかかることはすぐにわかった。私はTさんに何度も脅かされていたこともあり運転手に何度も 話しかけた。「アレがモーホか」とか「あそこに見えるのがポン・ジ・アスーカルか?」と何度も聞いた。運転手は面倒くさそうに「アレはモ−ホではない」と か「その通り、あれがポン・ジ・アスーカルだ」と答えた。ちなみにモーホというのはリオのスラム街であり、ポン・ジ・アスーカルというのはリオの観光名所 である岩山だ。すぐ近くには同じ岩山のコルコバードの丘があり,頂上には両手を広げたキリスト像がある。

ところが15分ほど進んだところ で別の岩山が現れた。運転手は「アレが本当のポン・ジ・アスーカルだ」と前言を翻し平然と答えた。あきれたことにこの男は観光都市リオ・デ・ジャネイロの タクシー運転手でありながら、どれがポン・ジ・アスーカルなのか知らなかったのだ。怒った私は運転手の首を絞め、売り上げを奪い、山間に逃走し、いやいや そうではなく眼光鋭く運転手をにらんだのだった。

余談になるが、実際にタクシーの客が運転手に危害を加える事件がリオで多発していたために乗客席と運転手の間には厚いアクリル板が防御用に貼られていた。

その内にやっとオテウ・アストリアという安宿に到着した。私がボディーガード用に確保し た男はその間ずっと熟睡しており、私が「おい、着いたぞ、タクシー料金はとりあえずオレが払うから後で***払え」というとやっと眼を覚まし、「いやあ、 ポルトガル語ができる人と一緒になれて良かった」などと暢気な事を口走った。私は忌々しげに、この何の役にも立たなかった男をにらみタクシーから降りたの だった。