ちょっと贅沢な国家破産 パート1.

庶民に優しい預金封鎖

実 は今回のエッセーは2002年頃に書いたいくつかのエッセーに加筆したものだ。その頃から私は国家破産や預金封鎖に関するエッセーを書いていた。基本的に 私は国家破産論者が嫌いだ。その理由は彼ら(立花隆、幸田真音、浅井隆など)が国家破産や預金封鎖を経験してないにもかかわらず不安を煽り商売にしている 点にある。世界を見渡せば国家破産や預金封鎖など日常茶飯事であり、現に私は両方経験している。何故、国家破産論者は自分たちが経験してないことをあたか も日本の既定事項であるかのように書くのだろうか?繰り返すが国家破産や預金封鎖を経験するのは難しくない。そして国家破産や預金封鎖といった「深刻で広 範な影響を及ぼす問題」について語るなら当然、その実態を知るために世界を周るべきだ。「いや、我々は不安を煽ることで金儲けをしているのであり、他国で の事情など興味ない」、彼らの本音がそうであるなら、そうした不安ビジネス(英語ではfear mongerという)に対しスペースとお金を提供するメディアの責任が厳しく追及されるべきだろう。という訳で怒濤の国家破産シリーズを始めたい(笑)。
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1989 年3月私はリオにいた。私の記憶ではホテルの地下のバーで飲んでいたら隣の男にナカジマはどうしたと話かけられたことになっている。ちょうどF1グランプ リがブラジルで開催されており、アイルトン・セナを輩出したブラジルは大いに盛り上がっていた。だがF1に興味のない私は早々に寝ることにした。まだ深夜 24時前だった。

朝起きたらみんなが騒いでいた。同宿の日本人旅行客やホテルのフロントの話を聞くと、真夜中数十年ぶりに民主的選挙で選 ばれたフェルナンド・コロルという新大統領が就任すると同時に全ての銀行の営業を3日間停止する大統領命令を出し実質的な預金封鎖が行われたと言う。だが 元々ブラジルの銀行にお金を預けていない私には関係ないと思った。これは大変な間違いだった。何故かというとドルが暴落した上に宿泊していたホテルや現地 レストラン/商店がドルや小切手・クレジット・カードでの支払いを拒否したからだ。私は当然のことながら現地通貨はほとんど持たずお金は全部ドルで持って いた。預金封鎖と同時に通貨の名前もノボス・クルザードスからクルゼイロに変更されたが、変更されたというだけで別に新札は出なかった。この点、ブラジル は非常にいい加減で、昔の紙幣にスタンプを押し、それを新しい紙幣と見なしていた。ノボス・クルザードスの時点ですでにそうだったのだ。

私 の記憶では預金封鎖が開始されたのは水曜日だった。しかしブラジルの金持ちはもとからブラジルの通貨と銀行を信用しておらずアメリカの銀行にお金を預けて いたので預金封鎖というよりただのバンク・ホリデー(強制的な銀行の営業停止)だった。ホテルの外に出ると早朝にもかかわらずありとあらゆる金融機関を何 十もの人の輪が取り囲んでいた。少額の引き出しは許されていたのだ。人の輪ができるのは当たり前で、商売で不渡りを出すと会社がつぶれる人を始め何時間か かろうとその日お金を下ろさなければならない人達がたくさんいたのだ。このバンク・ホリデーは金曜日まで続いた。そして土日に営業するような奇特な銀行は 外資系も含めブラジルにはなかった。そして月曜日になっても人の輪は続いた。

週が変わるとホテル側の態度も変わった。それまではVISA カードでドル・ベースでの借用書を書きホテルに出していたのだが、今日どんなことがあってもホテル宿泊代を現地通貨で払え、払わないなら警察に突き出すと 言い出した。私は英語の達者なフロントに、「お金はもちろん払うがあの人の輪を見てみろ。今日銀行の閉店時間までならんでも両替できない」と言った。実際 ブラジル人は野宿したり家族で交代しながらお金を引き出していた。フロントは紙を取りだし簡単な地図を書いた。そこに行けという。そこなら確実に両替して くれるという。フロントの警察に突き出すという言葉は表情から見て明らかに本気だった。私はホテルを出て地図に従いその闇両替店にたどりついた。

ブ ラジルでは闇両替そのものは珍しくなかった。むしろ銀行で両替するほうが珍しいくらいだった。闇の方が交換レートが有利だからだ。だがその闇両替店はマ フィアの経営するかなり危険な店だった。太い腕に青い刺青を入れたいかにもイタリア系の男が、「トリンタ、トリンタ!」と声をあげていた。先週の水曜日に は1ドル=90ノーボス・クルザードスだったのがその日には30(トリンタ)クルゼイロまで落ちていた。すでに書いたように新札が出たわけではなくただ名 称が変わっただけなのだが、1週間弱でドルの価値が1/3まで下落したのだ。お店にやってきた者たちは不満をぶちまけたが、刺青の男は嫌なら両替するなと 強気に言い放った。私は黙って両替をすませホテルに戻って支払いをした。私が現地通貨を差し出すとフロントの男は何が楽しいのかカラカラと笑った。

日 本に戻って知人のアメリカ人にこの話をすると彼女は大笑いをし「それ本当?でもラテン・アメリカはそういうところよ」と言った。あるブラジル人は私の話を 聞いて「おめでとう。キミは幸運だよ」と言った。何故幸運なのかと聞くと預金封鎖レベルの事件はブラジルでも稀でありオマエは滅多にない体験をしたという のだ。だがその後ブラジルの通貨がクルゼイロからリアル(現地の発音だとヘアウ)となっても数ヶ月でドルに対し価値が半分になるなどブラジルの通貨は決し て安定しなかった。

呆れたことに、このコロル大統領による預金封鎖はブラジル庶民から歓迎された。何故かというと当時のブラジルはハイ パー・インフレーション状態であり、庶民は最初から預金をしておらず、預金封鎖でダメージを受けたのはブラジルの富裕層と運の悪い観光客だけだったから だ。


当時のブラジルの年間インフレ率は1000%くらいだったと思う。これはゼロの数を間違えているのではない、千%だったのだ。一番ひどい時は 3000%くらいだったからインフレが落ち着いていた時期だった。だが年1000%のインフレというのは半端なくひどい状況だった。どれほど、ひどいかと いうとタクシーの料金表が無かった。数日で料金を改定しなければならないために毎日、手書きで料金が書き込まれていた。だが、一番ひどい頃は朝のタクシー 料金と夕方のタクシー料金が違ったというから、少なくとも数日料金改定が無いだけ当時の物価は落ち着いていたとも言える。

ブラジルの事件 など日本の参考にならないと国家破産論者は言われるかも知れない。だが経験しないより、経験した上で自分の意見を述べるのが財政・金融専門家の良心的姿勢 ではないだろうか?しかも預金封鎖を経験するのはたいして難しくないのだ。私の彼らに対する不信感はつきないのだった。