アストラッド・ジルベルトは音痴か?
(このエッセーは2002年頃に書いた文に加筆してあります)

アストラッド・ジルベルトの評価にはふたつある。ひとつはただの音痴と決めつけるもの、もうひとつは音痴だけど味わいがあるというもの。どちらにせよ彼女が音痴だという評価は、日本で定着しているようだ。だが本当にそうなのか?

音 痴かどうかを判断するには、まず何が正しい音程なのかを決めなくてはならない。そういう「正しい音程」というものはあるのだろうか?ボーカルはピアノやギ ターと違い平均律で歌うとは限らない。正統理論派は純正律を主張するだろうし、アフリカ/黒人派はもっと広くクォーター・トーン(半音の半分)も含めた音 程も認めるだろう。クォーター・トーン(四分音)は知らない人が多いと思うが、現代音楽では多用され、すでに譜面での記載方法まで決まっている。フルート などのように音程がアンブシュア(唇の形と息の吹き込み方)で大きく左右される楽器では、しばしば出てくる。

だが「正しい音程」とは一 体、何だろうか?聴いてる人が不快に思わず違和感も感じなければ、それは正しい音程だと私は考えるのだ。アストラッド・ジルベルトに戻るのだが、アスト ラッドは平均律より低く歌っていることが多いと思う。同時にわずかにリズムから遅れて、もたっているように聞こえる。僕は彼女のそうした歌い方を積極的に 評価している。

考えてほしい。人間、アンニュイでブルーな気分の時、声は普段より低めで会話での返事も遅れ気味になる。アストラッドの ボーカルはまさにそれを再現しているのだ。彼女は絶妙に音を下に外し、リズムから絶妙に遅れる。だからあのアンニュイな雰囲気がでるのだ。それを自然にや れるのが彼女の天賦の才能であろう。

個人的意見だが、アストラッドを評価するかどうかはボサノバを評価するかどうかにもつながると思う。ボサそのものがリオの中産階級の音楽好きのアマチュアが自分達の感性を生かし作ったサンバで、けっして理論的に正しいとか演奏技術的に傑出していたわけではない。

昔、 P.A.(拡声装置)がない頃のブラジルでは、イタリア系の朗々とした歌声がもてはやされた。そうした歌い方でないと多人数に声が届かないからだ。彼ら は、ガラスコップを声で共振させて割るようなゲームに興じたという。だが、最初のサンバの作曲家と言われるノエル・ホーザは自分の曲がそういう風に歌われ るのが嫌で、へたを承知で自分で歌い出した。アストラッドの歌はまさにそうしたブラジルの伝統の延長線上にあると思う。もちろん、その伝統をもっと見事に 体現したのはA.C.ジョビンだ。ジョビンの歌をみんな音痴というのだが、声量のムラはあっても音程に関する限り十分に正確だと思う。もちろんボサノバと いう音楽の文脈でだが(笑)。

ブラジルにはエリゼッチ・カルドーゾというサンバ歌手がいて、実に”正しい”歌を聞かせてくれる。キューバ ならオマーラ・ポルトゥアンド、日本なら美空ひばりか。そうした歌はどこか気持ち悪い。オペラで使用されるベルカント唱法を聴くと私はジンマシンが出る 「特異体質」なのだが、そのせいかもしれない。アストラッドやジョビンのボーカルを聞くとほっとする。正しい人たちは、その正しさゆえに音楽性に欠けると 思う。PCのほうが正確に再現できるものなど、音楽性に入れるべきではない。