何故、日本人の声は湿って聞こえるのか?

http://www.youtube.com/watch?v=MJ4NxmawgzI&feature=related

Char meets Jake Shimabukuro part2

上 記ビデオは日本人ギタリスト、チャーと日系アメリカ人ウクレレ奏者ジェイク島袋氏のセッションをおさめたものだ。音楽の内容はともかくとして、島袋氏に比 べチャーの発声は明らかに湿って聞こえる。しかし島袋氏の容姿を見る限り、血筋に関する限り純粋日系のようだ。そして島袋氏のほうが体が小さいのだ。だが チャーの声は湿って聞こえ、島袋氏の声は乾いて響く。実際、音量そのものも大きいようだ。この点に関して私は30年前くらいから不思議に思っていた。

肺 活量で言えば私のは平均的アメリカ人のそれを軽く超えていると思う。何しろ、小学校6年の時に肺活量を計ったのだが計った医師が呆れて「キミがこの学校一 番だ」と言ったくらいだ。だが私の声もまた非常に湿っており、聴き取りにくいと言われることもある。結局、声が大きいかどうかは肺活量とはほとんど関係な いのだ。私がコンゴに音楽を聴きにいった時に、現地の連中が実に大声で喋っていた。だが体格で言えば私と大差なかった。何故、このような違いがおきるのだ ろう。

理由の1つは声に含まれる倍音成分の量だ。黒人、ラテン系、アフリカ人の声は日本人の声よりはるかに倍音成分を多く含んでいる。こ れはスペクトラム・アナライザーを使えば簡単に確認できる。では何故、そうした人々の声は倍音を多く含んでいるかというと、これはリズム感に関係している ように思える。

コンガでも良いしスネア・ドラムでも良いのだが、ただスティックを強く叩きつけるだけでは倍音は出ない。倍音を出すには、 スティックがスネアの皮にあたった直後に引き上げるような叩き方をしないといけない。そしてアフタービート/シンコペーションが強くなればなるほど、そう した皮にあたった直後に引き上げる叩き方をする。それは結局、シンコペーションというのは拍の裏(ないしは裏の裏)を意識するということであり、それをド ラミングに反映させるには、裏(ないしは裏の裏)でスティックを引き上げなければいけない。

一方で日本人の発声法は和太鼓である。そこで はバチを皮に押し込むことが重視される。彼らの表現を使えば太鼓/皮を打ち抜く。それは良いとか悪いとかではなく違いがあるということなのだが、一般論として言えば倍音が多い音はより響き音楽的 に聞こえるのも事実だ。実は、ここまでは昔から理解していた。だが、声の倍音成分だけでは黒人、白人、日本人の声の響き方を説明できないとも感じていた。

今 は心理学的要素を考えている。日本人社会では大きな声で自己主張することははしたないと思われることが多い。結果として、声帯になんらかの心理的な「弱音 器」がかかるようだ。対して自分の考えを主張することが美徳と思われている社会では声帯はより自由に響く。これがコンゴのように大きな声を出さないと生き 残れない社会になると、声帯の振動をさまたげる要素が全くなくなる。つまり私が考えるところ、人類が普通に喋ればコンゴ人のように大声になるが、日本人の ように高度で複雑な社会を持つようになると声帯に対し心理学的な制限が加えられるのだ。

すでに書いたように私の声は日本人の平均よりくぐ もっているのだが、時々非常に響くことがある。それは何らかの自信と高揚感に満ちている時か、正反対に暗く落ち込みあきらめきった時におきる。それは結 局、心理状態の変化から他人や社会を意識しなくなった結果として、声帯がより息に対し自由に振動するからだと思う。

クラシック系の人はベ ルカント唱法を良く理由にあげるのだが、私は決してそれが原因ではないと思う。何故なら、コンゴ人の声の大きさはずばぬけており、アフリカ人が混ざってい る中でもコンゴ人だけは声の大きさから区別できるくらい違うからだ。そして彼らはベルカント唱法など一切、知らない。ただ自分の歌声を多くの人に聞いても らいたいという気持ちが非常に強いだけだ。

声の倍音成分を増やすのは練習により達成可能だ。だが、心理的障壁は我々日本人が考える以上に 大きいのではないかと思う。昔の日本人は西洋人の発声を南蛮鴃舌と形容した。モズの鳴き声のようにうるさいと感じた訳だ。この表現は孟子由来のようだが、 中国ではこうした感覚は消えたようだ。だが日本では生きている。それが声に現れているのではないかと私は考えるのだ。