中之島ブルースと在日社会

(このエッセーは2002年頃に書いた文章に加筆したものです。エッセーの元アイディアは中之島ブルースが流行った10年後あたりに考えたものです)

前 川清は好きな歌手の一人でありクール・ファイブのアルバムも何枚か買ったことがある。彼らのヒット曲に中之島ブルースというのがある。この曲の歌詞に「泣 いて分かれた淀屋橋」という部分があり、なぜ淀屋橋なのか私はずっと不思議に思っていた。 何故、心斎橋や梅田ではまずいのか?淀屋橋でなければならない必然性とは何かを考えた訳だ。

ずいぶん経ってから実際に西中之島から淀屋橋 まで歩いてみた。その時に幾分か謎がとけたような気がした。まず西中之島にはサントリーの本社があり、サントリーの直営店もいくつかある。つまりここらあ たりは会社の接待で軽く飲むには手ごろな場所なのだ。前川清さんは都会的歌謡曲歌手であり、あまり縄のれんという感じではないので、西中之島のイメージと も合う。私の解釈では男女二人はここで飲んで、男は女に東京転勤の話を告げたことになる。なぜ東京なのかは不明だが、この頃大阪本社の会社の多くが本社を 東京に移していたことが頭の中にあるのかも知れない。

だが男には妻があり女には大阪を離れられない事情があった。当然、男と女は会話がと ぎれ、かなりアルコールが入った後、土佐堀川を左に見ながら酔いざましに西中之島から淀屋橋まで歩いた。私は実際に歩いて見たのだが、中之島といえど夜の 10時台、この土佐堀川沿いの細長い公園は暗く、特に左手の土佐堀川はすべての光を飲み込むかのような暗い奈落を生み出していた。またこの部分は夜ともな ると歩行者もぐんと少なくなる(注:ここらの描写は全て1980年代のものである)。

そして淀屋橋である。淀屋橋は京阪の終着・始発駅だ (当時)。女は京阪電鉄の沿線に住んでおり、京阪で自宅に帰るのだ。関西はどの私鉄の沿線に住んでいるかで、かなりの部分まで「階層」がわかるところがあ る。京阪に乗ってどこに帰るのかは歌詞カードのどこにも書いてない。だが在日朝鮮人が多く住む鶴橋も京阪沿線にある。サントリーと言えば、毎日新聞 WaiWai事件以来、2chではほとんど在日企業扱いをされている。本当はどうなのか、私は一切、知らない。だが上の中之島ブルースの文脈で見ると、ジ グソー・パズルのようにはまるようにも見える。

さてサントリーは一般には大阪企業とされている。だが本当にそうなのか?亡くなられたサン トリーの先代社長佐治敬三氏は「やってみなはれ」とよく言った。これはサントリーの社是となった。多くの人は「やってみなはれ」は大阪弁と思っているが実 は京都弁である。佐治さんは船場で生まれ育った。船場というのは大阪の中にありながら京都弁が主流という特殊な地域だ。関西というのは非常にわかりにくい 地域なのだ。

佐治敬三氏は「東北、クマソ」発言でも有名だが、関西の上流階級に文明は逢坂の関で終わるという考えを持った人がいるのも事実であり、東京人ですら東夷(あずまえびす、東方の野蛮人)と呼ばれたのだ。そうした事情は田辺聖子とか谷崎辺りを読むと幾分かわかるかも知れない。

という訳で中之島ブルースの歌詞も深読みしようと思えば、ここまでの解釈が可能だ。それが妄想なのか真実の断片なのか、私は知らない。