骨のある役人の末路

新 聞社広告営業は最初、県担当から始める。朝日新聞の場合は広告営業を広告外務と呼んでいた。意味するところは営業である。私は最初、三重県の担当になっ た。当然ながら県庁所在地である津には何度も行き、広報の人と話をした。一時期、Hさんという若い真面目そうな人が担当になった。何回か会って話をしてい るうちにH氏は「こういう広告は本当に効果があるのでしょうか?」と聞いた。「こういう広告」とは小さな枠がたくさん埋め込まれた総花的三重県観光特集の ことだった。ちなみに、そうした広告は社内では連合広告と呼ばれた。

これは痛い質問であり、うかつに返事ができないのだが、三重県は朝日新聞にあまり広告予算を割り当てておらず、正直なところを言っても問題ないだろうと思い幾つかの点を指摘した。

1.こういう総花的な広告特集は特徴がないから、読者からの反響が期待できない
2.たくさんの広告枠があるということは埋もれる可能性が高い
3.従って三重県が本当に観光産業を育てるつもりなら何か1点突破的なキャンペーンをやったほうがお金の賢い使い方になるかも知れない

ひどい広告営業もあったものだが、従来の形での新聞広告は効果ありませんとほのめかしてしまった。しかしH氏は三重県庁の役人だから私の上司に連絡が入るとかないだろうと高をくくり名古屋に戻った。

そ の1ヶ月後に、津にある三重県庁広報を訪ねると担当者が変わっていた。新しい担当者に「H氏はどうされましたか?」と私が聞くと「Hは人事異動で伊賀上野 支所に転属しました」と彼は言った。県の本庁から伊賀上野支所に転属?私にも何か事件があり左遷されたのだろうとわかった。新しい広報担当者は私に「広告 は従来通りで。原稿も前回と同じ原稿」とそっけなく言った。さらに追い打ちをかけるように「ご用件はそれだけですか?」とぶっきらぼうに言った。要する に、「用が無いなら早く帰れ」と言ってるのだ。私はまるで逃げるようにその場から逃げ去ったのだった。

帰りの近鉄特急のなかで考えたのだ が、H氏は私が前回、言ったような1点突破的キャンペーンを会議で強く主張し、そのせいで伊賀上野に飛ばされたのかも知れない。何しろ伊賀上野と言えば、 忍者と松尾芭蕉くらいしか売り物のない三重の中でも寂れた土地だったからだ。しかし、H氏が率直な意見を聞きたいというから私は1点突破的キャンペーンを 例に出しただけで、三重県がそうした観光キャンペーンを採用すべきとは一言も言わなかった。ただ私の発言がH氏のなかでくすぶっていた何らかの不満に火を つけた可能性はあった。

そのうちに私は会社を辞めてしまい、H氏のことも忘れていたのだが、ある日の新聞を見て驚いた。それは「美(うま)し国、伊勢」という割と有名な広告キャンペーンの初回だった。私がH氏に勧めたのはまさにそういうタイプのキャンペーンだったのだ。構成団体を見ると

伊勢市、鳥羽市、志摩市、三重県、三重県観光連盟、伊勢商工会議所、鳥羽商工会議所、志摩市商工会、伊勢市観光協会、鳥羽市観光協会、志摩市観光協会、近畿日本鉄道、三重交通、伊勢志摩観光コンベンション機構

と あり、三重県観光オール・スターズとなっている。こうしたキャンペーンはDCキャンペーン(Dはデスティネーション、旅行の目的地のこと)というのだが 「美(うま)し国、伊勢」と言うのはどこが考えたのか、恐らく電通だろうなと推測する。皮肉な話だが、全く同じ内容でも電通が提案すると採用されたりす る。特に地方自治体にその傾向が強い。

それは何故かというと、例えキャンペーンが失敗しても「天下の電通がやってもうまくいきませんでし た」という逃げ道があるからだ。アイデアや創造性では博報堂のほうが業界でずっと高い評価を受けてきたと思うが、博報堂に地方博とかをまかせて失敗した場 合、自治体上司が担当者に「どうして電通を使わなかったのか」という形での責任の押しつけを行う事が多い。結果として、一時期の地方博はほとんど電通がし きっていた。哀しいことにその理由は、電通を選んでおけば失敗しても言い訳ができる、これに尽きたと私は考えている。

それで最初の三重県庁の広報担当者Hさんに戻るのだが、Hさんはその後、どうなったのだろうか?伊賀上野支所から本庁に復帰できたのか、あるいは俳人ならぬ廃人となり消え去ったのだろうか・・・・・