そして誰もいなくなった

私 は実は電通の入社試験を受けたことがある。それほど好きな会社では無かったが良質の広告コピーの持つキャッチーな部分と国語的洗練のブレンドは面白いと 思っていた。最初の筆記試験で変な問題が出た。それは禅の公案のような質問であり、どういう風に答えても正解にならない種類の設問だった。禅の公案とは両 手を鳴らして「今、鳴ったのは右手か左手か?」と訊くような種類のパズルだ。「和尚様、両手が合わさった時に空気の振動がおき、それが鼓膜で共振をおこ し、脳で音として認識されたのです」と答えると「たわけ者、一から修行をやり直せ」と怒鳴られるという不可解な世界だ。

私は(恐らく兄が 精神障害者であるために)就職が決まらないことに苛立っており、その質問に対し「この質問は正確な回答ができない。何故ならコレコレだからだ。このような 質問で入社応募者を試す会社の採用担当者の資質を疑う」と書いて提出した。ところが、それでも筆記試験をパスしてしまい、最終面接の2つ前まで行った。一 応、リストにしておくと

1.一般企業(製造業・金融):一次試験不合格
2.商社:三井物産のみ二次面接
3.マスゴミ:日経が最終面接、電通が最終面接の2つ前。他は一次で不合格
4.採用:朝日新聞社(+某英字新聞)

だった。電通というのは戦略的な会社だなとそこで思った。今ならゴールドマン・サックス辺りがそうした質問で採用を決めているようだ。GSもまた戦略的な会社だ。

あ くまで一般論だが日本社会というのはみんなと同じことをする者が一番、得をする社会である。それが戦後の復興をもたらしたのは事実だが、ある時点から社会 的な弊害をもたらしたと私は思う。もし、みんなと同じ事をするのが社会での最大利益をもたらすなら誰も自分の頭で考えることをしなくなる。そして実際に誰 も自分の頭で考えなくなった。評論家はただ英語などの海外ソースの情報を受け売りしているだけだった。代表は竹村健一である。今なら大前研一か。どうもケ ンイチというのは評論家に向いた名前らしい(笑)。

その弊害が今回の衆議院選挙で表れた。マスゴミも評論家も、自民が悪い、官僚が悪い、 民主は素晴らしいといった、なら民主が素晴らしいんだろうと多くの人が考えた。あるいは考えず鵜呑みにした。これは当然の行動である。何故なら日本社会は 基本的にみんなと同じことをする者が一番、得をする社会だからだ。その結果として現状がある。

何故、日本社会はある程度、成功した時点で 戦略的思考に切り替えなかったのだろう?もし自分の頭で考える人ほど報われる社会だったら今回の選挙結果のような「自殺行為」はおきなかったと私は考え る。(以下、自画自賛なのだが)私は少なくとも自分の頭で考えてきた。その結果、専門家に徹底的に反論された事も何回かある。その都度、相手の主張は妥当 かを検証し針路変更を行ってきた。だが正直言って自分の頭で考えることは全く報われなかった。それが私の性格を狷介にしたのも事実だが。

こ のサイトには相当な数のエッセーがある。まだアップしてない過去のエッセーも500ほどある。例えば、ジャズが演奏技術の高さにもかかわらず社会的評価が 低いのはジャズの中心的情感であるブルーという情感がみんなが共有する性格を持たないからだというのは、これまで誰も指摘しなかった視点だと思う。正しい かどうかは別にして、そうした主張が自分の独自思考の産物であることは多くの人が認めてくれると期待する。

残念ながら、そうした独自思考 は日本社会では報われないのだ。別に報われる事を期待してないのは何らコピー・プロテクションをしてない事でわかると思うが、もし日本社会が独自思考が報 われない社会なら誰も自分の頭で考えるような「無駄な行為」をしなくなるだろう。そして誰も自分の頭で考えることをしなくなった。

その結果が、2009年8月の衆議院選挙での民主党大勝だと私は思う。そして誰もいなくなった。

(だが本当に戦略的独自思考をする人なら日本社会の性格を見抜き、それを利用した戦略を立て自分の利益を上げるだろう。つまり、このエッセーは私が本当の戦略的思考が出来なかったことを証明している。それを認めるくらいの知的誠実さは持っている)