広告営業として最も惨めに感じた時

広 告というのは水商売であり、出るときと出ない時の落差が大きい。私が案内広告課にいる時、案内広告が大きく落ち込んだ。課長は私に企業に飛び込み営業をや り人事募集広告を集めろと言った。私は課長の言う通り、零細企業を中心に飛び込み営業をやり夕方には「今日はこれだけ廻りました」という報告をした。だが 人事募集広告は大手薬品の三共がたまたまプロパー(今はMRという)の募集を考えてたのでタイミングがあって出してくれたのを除けば全く集まらなかった。

あ る日の事だ。私は、例により名古屋市内で飛び込み営業をやっていた。ある企業で担当者を相手に人事募集広告勧誘の話をしていると相手は不思議そうな顔をし て私をじっと見た。そして彼は言った。「当然、ご存知だと思いますが案内広告は代理店政策が全てです。高い給料をもらってる新聞社の営業が廻って出るよう な広告じゃありません。あなたはどうして、こんな馬鹿な事をしてるんですか?私は今の職場に来る前は案内広告代理店で仕事をしてましたが、新聞社の営業が 直接、募集をかけるなんて話は聞いたことがありません」と言った。

こ れは実際、その通りなのだ。当時の私の年俸は1000万には届かな かったが一般企業からすれば十分すぎるほど高かった。私は毎月数万円を親に仕送りしていた。大学の学費を親に負担してもらった分を返そうと考えたからだ。 一方 で名古屋本社の案内広告は当時、1行2000円だった。10行の広告募集に成功しても2万円である。どう考えても効率が悪すぎた。さらに言えば、新聞社は 直接、広告を受けつけないから、どこかの広告会社に頼んで扱ってもらう必要があった。そして内藤一水社を始め、どの案内広告会社もそうしたハシタ広告を扱 うのを嫌がった。当然である、料金が回収できるという保証がないのだ。

私は猛 烈に惨めな気持ちになった。いや、1行2000円の人事募集広告を取るために飛び込み営業をすることが惨めだと言ってる訳ではない。募集に行った相手先企 業から「そんな馬鹿な事は止めろ。人事募集広告は広告代理店政策次第だ。それすらアナタはわからないのか?」と諭されたことが惨めだと言ってるのだ。

暗 然とした気持ちで会社に戻った私は、定時に自分のアパートに帰った。当然、次の日からはふてくされ反抗的な態度で課長に接した。どうも、その時の企業担当 者が朝日新聞に何か連絡をしたらしく課長も黙り込んだ。次の日に「もう飛び込み営業をやらなくてもいいから」と課長は言った。私の態度があまりに急変した のに何かを察知したのだろう。

私が東京本社から名古屋本社に配属するという辞令を受けた時に、東京本社の多くの人が「Sさんのように首をく くるなよ」とアドバイスしてくれた。その理由がやっとわかった。ちなみに、Sさんの死体を最初に発見したのは私が案内課の次に配属された外務2課の 課長だった。朝一番で広告のフロアに入ったら、首にロープを巻き付けたSさんの体がブラ下がっているのが目に入ったという。当然、警察沙汰になった。 この東京本社から名古屋に配属されたSさんを死ぬまで「いじめた」のは局長のM氏という名古屋生え抜きの人だと社内では言われていた。

私が内容証明郵便を社長に送りつけて辞めたことを多くの人が非難した。だが、広告のフロアで冷たくなって発見されるよりはマシだと今でも思っている。

追 記:このSさんの事件はさすがに社内でも問題になり名古屋本社に乗り込んできた東京本社広告局長とM局長の間で「オマエがSを殺した」という罵倒が繰り広げられたという。た だ、こうした上層部の「反応」は噂として聞いただけであり真偽はわからない。ちなみに私が内容証明郵便で辞表を送りつけた時に書面で批判した、やはり名古 屋生え抜きのM部長は東京本社広告局次長に昇格した。竹本を辞めさせたことが高く評価されたそうだ(笑)。

補足: この文章だけを読むと私が名古屋/愛知住人に偏見を持っているように見えるかも知れないので歴史的背景を説明する。戦時中に1県1紙という政府方針がとられた。これは紙資源を節約するために東京と大阪以外の地域では1つの新聞しか発行を許さなかった制度を言う。

こ の時に、戦時中の制度をフルに活用したのが岡田家/中日新聞である。戦時中に東海地方を制覇した中日新聞は戦後も他紙の追随を許さなかった。それが可能 だった背景には排他的な名古屋人の体質があるのは事実だが。いずれにせよ、朝日・読売・毎日、どの新聞社にとっても名古屋本社というのは「八丈島」だっ た。岡田一族は戦時中の制度のおかげで巨大な既得権益を得たことを正直に認めるべきだと私は思う。