朝日新聞赤報隊事件に関する新しい視点

朝 日新聞赤報隊事件というのは小尻記者が殺された阪神支局事件と名古屋本社新出来寮事件の2つからなる。前者に関して私は平均的日本人以上のことは知ら ない。だが新出来寮事件では事件の当事者だった。そしてこの事件での当事者は非常に少なく100人もいないのではないかと思う。この文章が日本 ジャーナリズム史上の何らかの資料になることを期待する。

新出来寮というのは名古屋の都心部にある朝日新聞社の寮だった。1991年に廃止されて今は無いと言う。神取(カンドリ)さ んという寮婦がいた。この人は日曜日の朝はカレーライスと決めており、寮のみんなが文句をいくら言ってもメニューを変えようとしなかった。私はこの寮にい たのだが、自分の部屋で音楽を聴くかライブを見に外出することが多く、寮に入っている他の人との交流はあまり無かった。私のスタイルを気に入らない広告上司が 「オマエ、みんなと仲良くする気がないなら出て行け」と言われたので、八事というお洒落な街に引っ越した。新出来寮事件は私が寮を出て1ヶ月ほどたってお きたと記憶している。

記憶が正しければ、この事件を知ったのは土曜日夕刊だった。写真付き1面記事を読んだ私は凍り付いた。ライフルが打 ち込まれたTV、食堂の様子は記憶に残っている新出来寮そのままだった。だがパニックになるほどの恐怖でも無かった。やはりアフリカの深夜を一人でうろつき 回るような経験をすると、自分がいつ死んでもおかしくないと感じるようになるからだろう。実際、私は2時間後には料理を作りコンゴ音楽を聴きギターの練 習を少しして普通に眠った。

月曜日、出社するとさすがに社内が騒がしかった。この事件での第1通報者は会計の久和という男だったが、私た ちは久和を広告に呼び、事件の顛末を聞いた。久和は「あれ、TVが壊れてる、おかしいなと思ったんだ」と言い、状況を説明をしてくれたが彼も笑いながら説 明をしたから新聞社という組織は幾分かは「異常な組織」なのかもしれない。

ところで赤報隊事件というのは朝日新聞の極左的な部分を嫌った 右翼の仕業とされているが本当にそうなのか、私は大きな疑問を持つのだ。当時の朝日新聞に極左的な部分があったのは確かだ。だが良識ある穏健派もたくさん いた。例えば、販売局の中堅は新入社員の研修で「ウチの記者には、自分が月光仮面のような正義の味方と考えてるのが多い、君たちはそうなるべきではない」 と主張した。ある出版局社員は本多勝一のことを「変装して長野を逃げ回っているチンケなオッサン」と呼んだ。彼は本多勝一の書籍担当編集員だった。広告で は新出来寮の事件の後、ブラック・ジョークが流行った。それは、もしライフルを向けられたら「僕たちは広告営業です、記者じゃありません」と言い記者を指 さすというものだった。

実際、「朝日ジャーナル」的な部分を批判し冗談のネタにし嘲笑しても広告では全く問題になら なかった。ところが赤報隊事件以来、そうした「穏健派」が意見を言いづらくなった。やはり同僚の記者がライフルで射殺されたというのは、それなりに重く受け止 められたからだ。結果として朝日内部に存在した穏健派は影を潜め、朝日新聞は「極右に対抗する極左」に変身していったように思う。結果論で言えば、赤報隊 事件は朝日新聞内の穏健な良識派を圧殺し、極左が社内での発言力を増すのを助けただけだった。

この関連で思い出すのはバブル崩壊初期の住 友銀行名古屋支店長殺害事件だ。熱心に不良債権処理を進めていた支店長が殺害されたために銀行がおじけづき日本の不動産を中心とした不良債権処理が大きく 遅れたのは関係者みなが認めるところだろう。2つの事件は全く違う別個な事件のように見えるが、根っこの部分に「同じ闇」が見え隠れする。

大 体、赤報隊事件の犯人がつかまらなかったというのもおかしな話だ。新出来寮は繁忙な住宅街の中にあり周囲には学校やスーパーもあった。だが犯人に関する情 報はほとんど出てこなかった。日本の優秀な警察が手がかりを見つけられなかったのは、犯人が犯行後、即座に「海外」に出たからではないかと私は考える。

オ マエは元朝日社員だから状況を「美化」しているんだろうと言われるかたがいるかも知れない。しかし私は内容証明郵便で辞表を社長に直接送りつけ辞めたとい う朝日のかなり長い歴史のなかでの相当な異端児である。朝日新聞に特別な愛情も愛着もない。歳をとり辞めてから長い年月が立ったために、朝日だから怒ると か恨むという事も無くなった。

疑問に思うのは、日本の正当な右翼があのような卑劣な行為をするだろうかという点である。だが、これまでそうした批判をする人はあまりいなかった。それはやはりテロにより記 者が一人死んだということが意味することが大きかったからだ。だが私も新出来寮におり、事情が事情ならテロの被害者として死んでいたかも知れない人間だ。 少なくとも私には自分があの事件をどうとらえたかを表明する資格があると考える。

赤報隊が狙ったのは、朝日新聞の極左記者ではなくむしろ当時は社内に多くいた良識ある穏健派ではないだろうか?そして彼らの目的は、「日本の右翼」の恐ろしさを喧伝し、朝日新聞社を極左が主導するメディアに変身させることでは無かったか?

「作戦」は見事に成功し、朝日新聞社は非常に思想的なメディアになった。一体、誰がこの戦略を考えたのだろうか?