朝日新聞は産経をどう見ているか?
(これは1980年代の事情に基づいて書いています)

一般には朝日と産経は天敵であると考えられている。実際、編集の連中はかなり侮蔑していたようだ。だが広告においては特に産経を敵視する理由は無く、むしろ産経の部数で広告を集めるのはつらいだろうなという同情論すらあった。

80 年代、私は近藤紘一という産経記者のファンだった。この人はベトナム人の奥さんと結婚し、奥さんと娘さんとのやり取りを軽妙な文章にしていた。ある私が担 当した講演会で近藤紘一を講師として呼ぼうと考えた。社内用の趣意書を書き上に上げたのだが、数日後に「やっぱり産経の記者は止めようや」と言われた。ど うも上層部/編集が反対したらしい。その理由の1つは朝日が産経記者を講演者として呼ぶと読者や雑誌から「問い合わせ」が入るためだそうだ。よっぽど朝日 と産経は天敵であると一般には信じられているらしい。近藤紘一さんはノンフィクション部門での最高の権威である大宅壮一賞を受けたから、近藤さんの文章の 素晴らしさは多くの人が認めていた。だが朝日が現役産経記者を呼ぶと世間が騒ぐからという割と消極的な理由のため講師として呼べなかった。これは一応、実 話である。

現実問題、朝日の社内には中途入社で入ってきた元産経記者がかなりいた。朝日の上層部は産経の編集方針は嫌っているが、記者と しての能力を認めないほど敵視はしてなかった。それは晩年の司馬遼太郎(元産経新聞記者)を最も紙面で取り上げたのが朝日であることからも明らかだろう。 もう1つの事情をあげると新聞社には降板とか色々な規則やスケジュールがあり、全く業界外の人に1から記者教育をするのが大変だという事情もある。

意 外な事に問答無用で講師であれ何であれ仕事でかかわるなと「指定」されていたのは竹村健一氏だった。上司は竹村氏は曲学阿世の徒であるから絶対、仕事を依 頼するな、打診の電話もかけるなと説明した。私も別にファンでは無かったが曲学阿世の徒は他にもたくさんいたので不審に思った。それが顔に出たのか、上司 は「竹村健一を使うならキミが代わりをやったらどうだ?」と冗談を言った。そうすると周囲にいた同僚も「そうだ、そうだ」と口をあわせた。

私 は悪乗りし「大体やね、ドラッカーもゆうてるように、日本企業の生産性は・・・」と物まねをしたところ馬鹿受けし「そっくりだ」、「メガネとパイプがあれ ば区別できない」という賞賛の嵐(?)がおきた。そうか、上司とか同僚は私のことをそういう風に見ていたのかと若干、忸怩たる思いがあったが、しかし冷静 に考えて見れば割と尊大に薀蓄をたれていたのは事実だった。私は朝日的にはとても受け入れることのできないブラック・ジョークを言わない時は確かに竹村氏 のような態度をとることもあった。自分を客観的に見るのはなかなか難しいものだ。

と言う訳で、朝日の記者が産経の編集方針に侮蔑感を持っていたのは確かだが、新聞同業者として認めるところは認めていた。意外なことに朝日新聞として全く許容できないのは竹村健一氏だったのだ。

で、 最初の講演会に戻るのだが近藤紘一氏がダメと言われたので私は椎名誠さんに講演を依頼した。この頃の椎名さんは「さらば国分寺書店のオババ」という本が1 冊あるだけだったが本の雑誌の編集長のほうでは割と知られていたのだ。そこで椎名さんの家に電話すると、本人がすぐ出られ講演を快諾していただいたのだ が、椎名さんが提案した講演会のタイトルは「街の面白悲しズム」というものだった。このタイトルが編集の好みに合わなかったらしく私は呼び出しをくらい、 このタイトルを変えろと言われた。ところが椎名さんは「街の面白悲しズム」というのは現在の作家としてのテーマであると主張され私は再度、編集にいき椎名 さんの意図を説明し、やっと講演会を開いたのだった。