アマゾンの奴隷たち

昔、私がやってたサイトに は数ページだが英語解説があった。そこでブラジルのサンバは西アフリカ音楽の影響が濃いと一般に考えられているが、同じポルトガル語圏のアンゴラにはセン バというリズム/音楽形式がある。コンゴ人にはサンバという名前の人がかなりいる(歌手のサンバ・マパンガラ、作曲家のサム・サンバなど)。一方で西アフ リカにはサンバというリズムも人名もないというような主張をしていた。

ある日、ブラジルからメールが届いた。アナさんという女性だった が、この人はwww.samba-choro.com.brという古いサンバ復旧の会(?)の中心メンバーの一人だった。だがボサとかファンク(ブラジル 風に発音すればフンキ)とかのファンでもあった。当時、私はアメリカのアマゾンからCDを買うことが多かったがアナさんはアマゾンを利用するなと言った。 彼女は、アマゾンは自分たちブラジル人のものでありアメリカ人のゾペスにアマゾンというドメインを使用する権利はないと主張した。なるほどブラジル人はそ ういう風に感じているのかと興味深かった。しかし、この頃ブラジルはアマゾンを貫通するハイウエーを作り、自然を破壊していた。この頃(2001- 2003)、世界で一番自然を破壊していたのはブラジル人と中国人だと私は今でも考えている。自分たちの誇りを破壊してはいけないだろう。

そ していつものように広告の話だ。多くの人が利用しているアマゾンのアフィリエートを取り上げよう。すでに知られているが、実際にお金を受け取っているのは ごく僅かであり無数のサイトやブログの所有者は何ら金銭的見返りを受けられないのにアマゾンの広告を入れている。そうした無数の「アマゾンの奴隷」がいる からアフィリエートが成り立っていると私は理解している。今、ネット広告が急速に伸びているが、その理由の1つは無料で広告を掲載してくれる「媒体」が無 数にあるためだ。悲しい話ではあるが。

そうした視点をさらに拡大すると広告を見させるためのコンテンツという問題にいきつく。求人や不動 産のように広告そのものに需要と訴求力があればコンテンツは不要だ。だが、ほとんどの広告にはそれほどの力は無い。そこで広告を見させる呼び水としてのコ ンテンツが必要になる。新聞なら記事であり、TVなら番組だ。本質を見失ってはいけない。記事というのは広告を見させるために存在するのだ。良い記事があ るから良質で単価が高い広告が集まる訳ではない。そうした時代は終わった。

ネット上で言えば、無料ブログがそうだ。あなたはブログをやる ことで何らかの自己主張、自己表現をしていると思ってるかも知れない。それは間違いではない。だがブログ・サービスを提供する側から見ると、毎日、ブログ を更新し広告アクセスを確保してくれる「無料コンテンツ提供者」である。中には個人情報まで「提供」してくれる人もいる。ネット広告が伸びるはずだ。

突 然、オリンピックの話になるのだが、私はオリンピックというのはスポーツをコンテンツにする広告宣伝国際行事と考えている。今回のバンクーバー・オリン ピックはいつ始まりいつ終わったかも知らない。とうとう1回もTV中継を見なかった。新聞記事も読まなかった。ただネットをうろついているとオリンピック の記事や写真があるので、開催中なのは知っていた。

大体、私はスケートにもスキーにも興味ない。興味あるなら普段から自分で楽しんだり国 際大会中継をみるはずだ。見てないということはそうしたスポーツに何ら興味がないという事であり、自分が興味を持ってないのだからオリンピックだろうと何 だろうと番組を見たり記事を読んだりする理由がない。今回のオリンピックはTVも新聞も見ず、知らぬ間に始まり知らぬまに終わった。個人的にはバンクー バー・オリンピックは大成功だったと考えている。大体やね、ドラッカーもゆうてるように、TV中継を見るということはTV局を太らせ電通のメディア支配強 化の手伝いをすることですよ。ボクなんかTV見ませんよ、何が悲しくて自ら電通の奴隷にならなあかんの?何、物まねはもう秋田?それでは本来の文体に戻ろ う(笑)。

こういう本音を言うと「いやいやオリンピックというのは歴史ある国威をかけたスポーツ・イベントであり・・・」と説教を始める 人が多数いる。そういう人はオリンピックを見ればいい。そして国威をかけた争いに高揚感を感じればいい。私はそれが悪いとは一言も言ってない。自分はオリ ンピックというのはただのスポーツをコンテンツにする国際広告宣伝の場としか考えてないから興味ないと言ってるだけだ。もちろんオリンピックのビジネス・ サイドは別だ。

私は、このサイトで自分がエイズや内戦の危険を侵してコンゴに演奏を聴きにいった体験を書いている。だが私はコンゴやアン ゴラの音楽は素晴らしいという自分の感想は述べているが、サイト訪問者にそうした音楽を聴けと薦めてはいない。音楽は、つきつめれば個人の好みでしかな く、朝ご飯に納豆と味噌汁がいいか、ハム・トーストがいいか程度の問題だと私は思っているからだ。もちろん音楽を全く聴かず社会人として立派な暮らしをし ている人は無数にいる。むしろ音楽を演奏する人の多くが社会的な問題をおこしているようだ。

意外と音楽の無い社会こそ愛と平和に満ちた「理想社会」かも知れない。何故なら音楽演奏者とリスナーの多くはエゴイストだからだ。そして私がどれだけコンゴやアンゴラの音楽を賛美しても現地の生活が良くなる訳でもない・・・