優れた翻訳とは何か?

私は関西人ではないし関 西弁もできない。だが笑いのセンスは完全に関西人であり、意識しなくてもボケとツッコミを一人で演じている。ほとんどの時、私はボケをやっているのだが東 京人には理解できないらしく「竹本さんは馬鹿だと思ったら本当は賢いんですね。どうして馬鹿な事ばかり言うんですか」と職場の女性から言われた時は返す言 葉が無かった。「オマエがツッコミをやらないからオレが馬鹿に見えるんだろ」と思わず本音で反論しそうになった。

朝日・岩波的な風土と極 めて相性が悪かったのは事実だ。ある日、社内で岩波の本の話になった。私に「キミは何冊、岩波の本を読んだ?」と訊く人がいたので「生まれてから一度も読 んだことありません」と正直に答えたら相手は呆れてしまい「朝日新聞社員で岩波の本を読んだことがないのはキミだけだ」と言われた。だが岩波の本を読まな いから困ったことなど一度も無い。大体、朝日には真面目な人が多すぎる。大体やね、ドラッカーもゆうてるように・・・、ちょっとしつこいか。

私 が自虐的に「変人28号ですから」と言ったら何故、28号なんだと訊かれたこともある。もちろん、これは鉄人28号にかけているのだが私が「いや、27号 の次だから28号なんです」と答えると、その人は侮蔑的表情を浮かべた。ちなみに変人28号というのはジャズ・ピアニスト山下洋輔さんのフレーズ「別人 28号」あるいは「愛人28号」のパクリである。言葉のセンスを評価するのは非常に難しい(笑)。

そこで岩波批判である。

引用

名詩名訳ものがたり 異郷の調べ
 亀井俊介 沓掛良彦
岩波書店

わがうへにしもあらなくに/などかくおつるなみだぞも
  ゲーロク「花薔薇」(井上通泰訳)

なじかは知らねど心わびて
  ハイネ「ロオレライ」(近藤朔風訳)

引用終わり

わがうへにしもあらなくに/などかくおつるなみだぞも ?何ですか、これ、念仏?梵語(サンスクリット語)にしか私には見えない、聞こえない。意味も全くわからない。どこが名訳なんですか。これは日本語ですか?

な じかは知らねど心わびて 、これは完全に悪い翻訳だ。何故かは知らない、心さびしくと私なら訳すだろう。実際、それでローレライを歌えるはずだ。なじかは詩的放縦(poetic  license)として見る事も可能だが、「知らねど」という訳には侮蔑感すらわく。シラネ度というのは武士言葉である。「みどもは知らねど、片じけのう ござる」、そういう風に使う言葉だ。何故、武士言葉をロマンティックなハイネの詩の翻訳に使うのか、その理由が全く理解できない。近藤朔風という人が何者 か私は全く知らないが、もし翻訳チェックでこんな訳が送られてきたら私は即、ボツにするだろう。翻訳は何重もの過程を経ている。下訳をやる人、チェックを やる人、校正をやる人、全体の監修をする人、編集者の点検、これくらいは普通にある。私も数回、他の人がやった翻訳チェックをしたことがあるが、こんな翻 訳は絶対、許さない。

では逆に私が感動した訳を挙げてみよう。私は文章やギャグ・センスの上で桂米朝-筒井康隆-山下洋輔あたりに一番、影響を受けている。その延長線に平岡正明というジャズ評論家がいた。20数年前に平岡氏がジェームズ・ブラウンのセックス・マシーンの歌詞

Get up, (get on up)
(get on upはボビー・バードというJBの相方がかけあいで答えている)

を「立ったらつっこめ」と訳された。日本でもギラッパあるいはゲロンパとして知られる有名な歌詞だ。Getをギットと発音するのは非常に下品なアメリカ英語であり決して真似をするべきではないが、そうした下品さがこの曲を不朽の名曲としている。

私は初めて平岡氏の訳を読んだ時、松尾芭蕉の俳句にも匹敵する簡潔さ、原詩のもつニュアンスをあますところなく伝える翻訳に感銘を覚えた。これはきっと未来の高校英語教科書にのるに違いないとすら感じた。それほど素晴らしい翻訳だった。

残 念ながらすでに20年以上経ったが、未だに英語教科書に採択されていないようだ。Sex Machineの歌詞を教科書に載せられない文部科学省の事情は わからないでもないが、一方で明らかに悪い翻訳である「なじかは知らねど心わびて」は未だに名訳として教えられているようだ。非常に残念な話だ。

私は翻訳者としての盛りに歴代アメリカ大統領と日本の首相経験者が持つ懇親会的会合の翻訳をやったことがある。ネイティブの感覚はないが英語の素人でもない。そして「なじかは知らねど心わびて」のどこが名訳なのか未だに全く理解できない、これは本音として言っているのだ。

悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則は翻訳でも活きているようだ・・・・

補足

詩的放縦(poetic license)とは散文でない文章では文法を無視した表現が許されるという慣行である。この技巧はいまでもラップやヒップホップという音楽の歌詞に見ることができる。