神戸まつりとガーナ人の踊り

姫路は文化的には 神戸の植民地だった。だが神戸という都市は横浜とならぶ日本のジャズ発祥の地とされ、非常にモダンな部分があった。当時、AMラジオをつけるとMJQ(モ ダン・ジャズ・カルテット)とか電気化する前のマイルス・デービスとかボサノバが普通にかかっていた。今のラジオを聴いている人には信じられないだろう が、私がAMラジオを聴いてた頃は夜の8時-9時にモダン・ジャズが普通に流れていた。

当時の神戸まつりはゴールデン・ウイークの真ん中 に設定されていた。私は電車に乗って神戸まつりを見にいくことにした。神戸まつりの会場は広く私はずっと歩いて回った。そうするとある会場にアフリカ人が 数人いるのを見つけた。すでに書いたように私は、この頃からすでにアフリカ音楽ファンだったのだが、当時は英語ができない為に話しかけるのをためらった。

そ の内に、ステージがセットされPAチェックが始まった。すでに夜の7時頃だったが、私はこのバンドの演奏を見てから姫路に帰ることにした。バンドの名前は 確か、花屋敷といったと思う。リハを見ているとラテン系のバンドらしくコンガなどが入っていた。その内に彼らは演奏を始めた。演奏されたのは「てんとう虫 のサンバ」を始めとしたサンバの古典的名曲(?)だった。だが当時の日本人バンドにしては相当にリズム感が良かったので、彼らの「選曲」に私はそれほど不 満を覚えなかった。いずれにせよ神戸まつりというお祭りの中のイベントなのだ。

しばらく演奏してならした後、彼らはステージにゲストを呼 んだ。それはさきほど見たアフリカ人たちだった。ダッシキと呼ばれる民族衣装を着ていた。この人たちが花屋敷の演奏するサンバにあわせてステージで踊った のだが、この踊りが実に良かった。それまで私はアフリカ人の踊りはTVで見るいわゆる部族音楽でのそれしか知らなかった。だが、ステージ上に上がった数人 のアフリカ人は時折、ステップを踏んだ。当時のアメリカ黒人向け人気番組「ソウル・トレイン」で見られるような技巧的な踊りではなかったが、それなりにモ ダンなアフリカン・ダンスだった。

今、思えば彼らはガーナ人の船員だったようだ。神戸にはコーヒー産業があり、ガーナやアイボリー・コーストから定期的に船が寄港していたからだ。

こ のステージは延々、夜の11時まで続いた。さすがに11時になると騒音問題が出るらしくステージは終わり、神戸まつりも公式には終わった。私は最終電車に 乗り姫路に帰ろうと駅に向かったのだが、まだ通りのあちこちで自由な演奏がされていた。神戸と言うモダン都市における自由なスピリット、そして実にナイス だったガーナ人たちの踊りを楽しんだ私は神戸まつりに非常に良い印象を持った。

それが一変したのは翌年、暴走族が暴れ神戸新聞のカメラマンが殺されてからだった。その事件の後、1回だけ行ったが、もはや通常の市営祭りでしかなく、規制だらけだった。私が見た自由なスピリットはどこにも無かった。

だ が例え1回にせよ、まだ華(はな)がある時期の神戸まつりを楽しむ事ができたのは幸運だった。その10数年後にコンゴの主都キンシャサに音楽を聴きにいく 自分の姿を当時は全く想像できなかった。だが、神戸まつりで「種」がまかれたのは事実だろう。出会いというのはこんなもんである。