|
優秀な広告営業とは何か?
私が朝日新聞名古屋
本社にいる頃、同僚に慶応出身のMという男がいた。この男は加山雄三のライフスタイルが好きで、電通を通した企画で加山さんのディナー・ショーを企画し
た。この企画で意気投合したのか、あるいは電通の後押しがあったのか知らないが、この男は加山雄三さんと個人的なつきあいを始めた。驚いた事に、このM氏
の結婚式に加山雄三さんからの祝電があった(ここらは記憶が曖昧なのだが、ひょっとするとご本人が出席されたのかも知れない)。そういった形で広告会社、
特に電通を中心に人脈を広げるのが一般的に良い広告営業とされた。
では広告営業としての私はどうだったのか?これはこれで面白いし、もう大昔のことなので書いても実害は無いと思われるので有り体に書いてみよう。
朝日新聞東京本社での仕事は有楽町から築地本社への移転作業の補助でしかなかった。だが、朝日の本社/支社の中で一番、人気のない名古屋本社に配属されたということは「最低評価」をされたということだろう。
当
然ながら名古屋本社でも私は仕事は最大限に手抜きをした。会社の評価に見合った分の仕事しかしないというのが私の考えだったからだ。それが変わったのは東
京本社から田中*雄という人が部長として配属してきてからだ。この人は、広告営業は企画とアイディアだと言い、毎月良い企画を紙面に載せた者を月間最優秀
営業として認め、幹部用社内食堂アラスカで食事を奢り、評価するという方針を打ち出した。
それまで1行2千円の人事募集広告の飛び込み営
業をやらされて腐っていた私は、田中さんの提案に飛びついた。月間最優秀営業が決められてた2年間の1/3は最優秀営業を私が取ったと記憶している。正確
なところは朝日新聞に照会すれば簡単にわかるだろう。あんまり私ばかり選ばれるので企画の意味が無くなってしまい、とうとう田中さんは「竹本君はもう十
分、評価されたから対象から外す」と言われた。
この田中さんが広告部長だった2年間に関して言えば私は朝日新聞のなかでも優秀な広告営業
だった。ところが田中さんの次のM岡という名古屋生え抜きの男は非常に考えが古い人で精神論ばかり強調した。私は一挙にやる気をなくし、広告営業としての
ランクはほぼ最下位に落ちた。このM岡氏は何かあると「腹をくくれ」といったのだが私は「腹はすえるものでくくるものじゃない」などと聞こえるように批判
をしたために、ますます敵対関係が強まった。最終的にはM岡部長を飛ばし朝日新聞社長宛に内容証明郵便で辞表を送りつけて辞めた。
人間の心理はこんなものである。上司が論理的で理解力を持つ人なら働こう、精神論を唱える人なら辞めよう・・・ 全ての営業がこうではないが、多くの営業はこう考えている。しかしM岡氏になってから生き生きと活動した広告営業もいたから相性と言えば相性だ。
そ
こで思い出すのが高校3年の2学期の期末試験だった。私は経済学専攻にしぼっていたので数三を勉強しなくてもよかった。だが私は数学が勉強ではなく趣味と
して面白いと思っていたので勉強を続けていた。で、高校3年2学期の期末試験数学で私は94点(?)だったかな、ともかくクラスでの最高点を取った。同時
に化学の試験で8点を取った。この化学の試験は5択の問題が25あるものだった。その25ある設問のうち2つしかあわなかったのだ。
これ
を化学の教師であるHという男が曲解し、私は職員室に呼びつけられた。H氏は「オマエ、数学が94点で化学が8点とはどういうことだ?オレをなめてるの
か」と激しく罵倒した。私は正直に「アナタの授業はつまらないから化学を勉強しようという意欲がおきない。8点は自分の正直な実力だ」と言ったところH氏
は荒れ狂い「オマエはオレの授業のどこが気に入らない?」とさらに詰問した。私は「アナタは周期律表は美しいとか授業で言ってるが、周期律表は穴だらけ
だ。何故、穴があるのか説明できないのに美しいというのは自己陶酔だ」とさらに反論した(←我ながら良く言ったものだw)。
さすがにH氏は激高し私に詰め寄ってきたが、周囲で会話を聞いていた数学の教師達が何とかなだめてくれ、私はH氏との乱闘を避けることができた。
ここで一般論を言うのも危険なのだが、田中氏や高校の数学の教師は私の興味を引き出すのがうまかった。一方でM岡氏や化学の教師は私の反感しか引き起こさなかった。それは正直に営業売り上げ/試験の点数に現れた。
よく能力のある人、ない人というが実態はこんなもんだと思う。能力とは氷山の海上に見えている部分に過ぎない。90%は水面下に隠れているのです。
| | |