朝鮮カラオケでの不思議な体験

名古屋にいた頃、同僚の一人に誘われて朝鮮カラオケなるところに行った。今池という猥雑な繁華街の雑居ビルの中にあった。

当 時(1980年代後半)、私は朝鮮半島における音楽事情にほとんど興味が無かった。だがワールド音楽ファンとして機会があれば朝鮮カラオケでも河内音頭の コンサートでもいった。実際に名古屋で京山幸枝若師匠のコンサートが愛知厚生年金会館であった時、私はちゃんとお金を払ってコンサートを聞いた。一般には 浪曲師として知られる京山幸枝若氏だが河内音頭を演奏する時にベストな持ち味が出ていたと思う。幸枝若師匠のコンサートはナイスでグルービーでありケチの つけようが無かった。既にお歳であり、かなり演奏パワーは落ちていたが。

さて最初の朝鮮カラオケに戻ろう。私を誘ったのは職場の同僚M だった。こいつは職場でボケとツッコミを理解できる唯一の男であり、必然的に私はこの男と夜遊びをすることが多かった。この男はなかなか豪快な部分があっ た。ある夏の日、この男は背広ハンガーから背広を取り出し、営業に出た。ところが、この男が着て出た背広は実は部長の背広だった。この男と部長は体型とか 服の好みが似ていたのだ。慌てたのは部長である。打ち合わせのために外出しようとしたしたところ自分の背広がない。結局、打ち合わせは延期になり、男が 帰ってくるのを待つことになった。帰ってきた男は当然ながら部長から「馬鹿者!」と罵倒されたのだが本人は「なんか背広がいつもと違うなとは気づいてまし た」と言い訳をし、その「器の大きさ」を示したのだった。

今池の朝鮮カラオケである。そこは普通のカラオケとは相当に変わっていた。まず 聞いたことのない韓国の歌謡曲が現地の言葉で歌われた。さらに日本の歌謡曲(主に演歌)もハングルで歌詞表示がされた。常連さんたちは、そうした「難曲」 を平然と歌いこなしていた。当然ながら私たちは小さくなりながら端のほうでチジミと呼ばれる朝鮮お好み焼きなどを食べていた。

だが、その お店にいたお客で全くカラオケを歌わないのは我々二人だけだった。同僚は「ガンラ・ガンラも何か歌ったら?」と言った。この男は私がコンゴを代表するグ ループ、ザイコ・ランガ・ランガのファンであることは知っていたのだが、何故かランガ・ランガをガンラ・ガンラと記憶間違いをしていた。そして私の事をガ ンラ・ガンラと呼んでいた。だがハングル表示の歌詞で歌えるような曲は全くなかった。

驚いたことに、そのお店の韓国人ママは当時、流行し ていた「長良川恋歌」をかけマイクをいきなり私に手渡した。リクエストもしてないのに、マイクを渡された私は驚き、すぐさまマイクを同僚に渡した。同僚は 幅広いカラオケの持ち歌があったからだ。ところが彼も、この歌を知らなかったらしくマイクを持ったまま立ち往生した。それを見かねたママがマイクを取り上 げ、自分で「長良川恋歌」を最後まで歌ってしまった。

どちらにせよ我々のような者が来るようなカラオケ・バーではないことはわかったので チジミを食べ終えた後、我々は店を出た。そこで同僚と別れ、私は地下鉄にのり自分のアパートがある八事に戻りながら考えたのだ。「何故、長良川恋歌が突然 かかり、私にマイクが回ってきたのか?」をである。

その内に私はやっと気がついた。同僚が「ガンラ・ガンラも何か歌ったら?」と言ったのを日本語が不自由な半島ママは「ナガラガワレンカ」と聞きとったのだ。それは半島文化との最初の接触だった・・・・・

追記

あ まり知られて無いが、京山幸枝若師匠の名曲に「ああ、日蓮大正人」というのがある。これは元寇を歌ったもので、蒙古の船隊が博多に押し寄せたのを知った日 蓮大正人が博多の浜にかけつけ、神国日本のために数珠をまさぐり念仏を唱えるとたちまち神風が吹き、蒙古船隊は次々に沈んで行くという何と言うか実に豪快 な話だった。おいおい、日蓮は仏教と神道の区別もしないのかという批判は野暮である。もはやワグナーにも匹敵する壮大な叙事詩、幸枝若師匠の名調子に私は ハラハラと涙したのだった。それは右翼とか左翼とか関係ない、優れた芸術のみが持ちうる説得力があったからだと私は思う。

関係ないが南春 夫さんという優れた歌手がいた。この人は浪曲上がりだった。当然ながら浪曲での録音もある。私が聞いた中では、忠臣蔵/赤穂浪士をテーマにしたものがすさ まじく良かった。今、浪曲を聞く人はほとんどいないと思うが図書館などで聴く機会があれば聴いてみる事をお勧めする。南春夫という歌手は恐ろしい実力を 持っていたことがわかるはずだ。