イパネマの娘から始めよう
2010.09.28

最初にお断りしますが、この文章にたいして内容はありません。ただ私がネット上で発表した最初の文章なので再掲載しました。

ジョ ビンとヴィニシウスはヴェローゾというバール(パリのカフェのようなもの)で毎朝、海岸に向かうビキニの少女エロイーザを鑑賞しながら名曲「イパネマの 娘」を書いたといわれる。私が泊まっていたコパカバーナのホテルから少し歩けばこのヴェローゾにたどり着いた。すでに持ち主も変わり、名前もガロータ・ ジ・イパネマと改名され、ピアノ・バー兼レストランになっていた。

意外と海岸や海岸にそったハイウェーから奥まったところにある地味 な場所だった。昔の開放的な雰囲気はまるでなく、ただの観光名所だった。そこからさらに歩くとレブロンに入り、当時はまだ健在だったジョビンの住居があっ た。リオは3週間ほどいたのだが街角でジョビンに偶然出くわすようなことは一度もなかった。

ところでイパネマの娘のモデルとよく勘違いされるアストラッド・ジルベルトはアメリカのTVの番組で、

「あなたがイパネマの娘ですか?」と聞かれ、
「いいえ、私はバイーアの出身です」と答えたという。

これは事実なのだが少し誤解されている。アストラッドはバイーアで生まれたが、生後3ヶ月で家族と共にリオに移り育った。出生証明書はバイーアとなっているかもしれないが、そのスイング感覚はリオのものだ。

私が最初に聞いたボサもゲッツ・ジルベルトにおさめられているイパネマの娘でありアストラッドの歌だった。個人的には「おいしい水」の方が好きだが。

(この部分は謎である。自分では最初に聴いたブラジル音楽はジョルジ・ベンかバーデン・パウエルと記憶しているからだ。ひょっとすると、いい加減に書いたのかも知れない)

名 曲「イパネマの娘」の誕生したバールと同じ角にあるジュース・バーでビタミーナ(アボガドかバナナのミルクシェイク)を飲みながら少し感慨にひたった。大 西洋はのっぺりと広がり、音楽の女神ミューズはすでにリオを離れたようだった。ジュース・バーのラジオはアメリカのロックを流していた。残念ながらサンバ のリズムはどこからも聞こえてこなかった。