総合芸術としての音楽
2010.10.05

私はこれまでロックとかJポップを批判する文章を書いてきた。だが、それは全くの的はずれかも知れない。何故なら私は音楽を非常に狭く考えているからだ。

1.狭義の音楽

リズム、メロディー、ハーモニーを中心とする伝統的音楽/ポップス

2.広義の音楽

演劇、文学性、個人のカリスマ、時代を背景にした空気などを含む総合芸術としての音楽

こ こで1つ確実に言えるのは狭義の意味での音楽は行き詰まっており、もはや大きな展開や進歩は期待できないという点だ。そうなると音楽が生き延びるために は、音楽以外の要素のほうが重要になってくる。ひょっとしたら「歌手」にカリスマさえあれば音楽は成り立つのかも知れない。

例えば、非常 に美人でカリスマ性のある女性がいたとして、この人がコンサートを開いたとしよう。バックバンドは腕達者なスタジオ系のミュージシャンである。彼らが雰囲 気のある演奏をする中、「カリスマ歌手」はステージに現れ喋りだす。彼女の売り物はカリスマと美貌とナイス・バディーなので別に歌う必要はない。今日、コ ンサート会場に来るまでにおきたことをただ喋っても男を中心にした観衆は熱心に聞き入る。

時折、長い髪をかき上げるたびに会場にどよめき がおきる。バックバンドのサックス奏者あるいはギター奏者が「ビエー」「キーン}という強い音(フラジオ/チョーキング)を鳴らす。その時に「カリスマ歌 手」がクルッとバンドのほうを向き「もっとやさしくして」とか言おうものなら、会場につめかけている男どもは眼をハート形にして高揚状態でステージを見入 るだろう。

さすがに、それだけでは2時間のコンサートが持たないので、適当なゲストが必要だ。後はほとんど意味のない会話をし、黒いドレ スにつつまれたナイス・バディーを見せびらかすだけでコンサート終了まで観衆の注意を引きつけることができる。繰り返すが、これもまた立派な音楽コンサー トだ。そうなるとメインのパーソナリティーのカリスマだけが重要であり、歌唱力だの音楽性だのはほとんど意味が無くなってしまう。実際に今の音楽はこちら の方向に向かっている。

昔、別の音楽サイトをやっていた時に、ある若い女性からメールが届いた。最初、彼女のメールが何を言ってるのかよ くわからなかった。簡単に言ってしまえば、私がその女性用に曲を書き、バックの演奏をつけるなら、自分がボーカルをつけてやると言ってるのだ。当然、私は 丁重にお断りをしたが、しかし音楽業界的にはむしろ彼女のような態度のほうが普通なのだろう。男女でユニットを組んだとして、売れるかどうかを決めるのは 女性歌手の力量とカリスマ・個性次第なのだから。

という訳で私は何故、自分の音楽、あるいは音楽に関して書いてる文章がほとんど無視されているか、その理由はちゃんと理解している。ただ直そうという気がないだけなのだ(笑)。

こうした現象を音楽の進化ととるか劣化ととるかは個人の自由だろう。