新聞の粗利益と純利益
2010.10.10

まず最初にお断りをしなければいけない。ここでの文章は全て1980年代に広告営業をやった時の経験から書かれている。当時は、この主張は完璧に正しかったが、今は異なるかも知れない。

未だに多くの人が勘違いをしている点がある。それは新聞社における販売収入と広告収入はほぼ同等であるというものだ。何故、こうした勘違いが未だに生きているか?それは新聞社がそういう風に読者に信じて欲しいからだ。

そ の為に販売収入はグロス(粗利益)で、広告収入はネット(純利益)で計上している。この場合、販売収入と広告収入は50:50になる。媒体によりこの比率 は相当に変化する。別に問題ないと思われるかも知れない。ところが大問題である。何故かというと、新聞社は販売店を維持するために膨大な「売り上げ報奨 金」を出しているからだ。つまり、いったん販売店から本社に吸い上げられたアナタの購読料金は、販売店維持あるいは拡販のために販売店に戻されるのだ。

実 際、経費を差し引くと販売からの純利益はゼロだった。これは1980年代初め頃の話だ。その後、部数拡張競争に伴い販売はますます経費を使うようになり、 私が辞める頃には既に赤字になっていた。つまりアナタは新聞購読料金を払うことで新聞社の経営を支えていると思うかもしれないが、実態を言えば新聞社の経 営を支えているのは広告収入なのだ。

では何故、このようなおかしな利益計上を新聞各社がそろって採用していたかというと1つは読者向け、1つは社内向けのメッセージを出したかったからだ。

読者に関して言えば

1.自分たちの購読料金で新聞社の経営が成り立っているという幻想/夢

2.新聞社は広告主からの圧力には屈しないで記事を作ってますというメッセージ

社内向けに言えば

1.営業系(広告と販売)以外の社員=記者は会社がどうやって経営されているか知らなくて良いという考え

2.営業系の中で広告と販売が意識上、対等でなくなる。社内格差。

部 数が必要なのは確かだが、それは広告では基礎体力と呼ばれた。私がいた頃、すでに読売の部数は朝日より100万程度多かったが、広告料金は朝日のほうが高 かった。それは当時の朝日新聞読者はresponsive、つまり広告に対し反応する人が多かったからだ。それは問い合わせ電話かも知れないし、不動産の 場合はもっと厳密な問い合わせから成約にいたるまでの成約率かも知れない。広告主としては、広告を出した以上、何らかの反響が欲しいのだ。その点において 朝日のほうが優れていた(80年代の話)。

反響があるかどうかを気にしない広告主も希にいた。政府公報である。あるいは決算公告を含む様 々な公告である。政府公報は単価が高い上に反響があるかどうかを気にしない「優良広告主」だったが、苦情を言わない優良広告主であるが故に紙面割付ではあ まり良い面に掲載されなかった。これはハッキリ言って税金の無駄遣いだがタブーがあるようで誰も問題にしてない。決算公告は法律により出すことが義務に なっていた。当時はネットという代替がなかったのでほぼ新聞が独占していた。現在は会社のサイトでの公告も可能となり、これもまた新聞社経営圧迫の理由の 1つだ。

偏向報道や押し紙、失礼、予備紙の問題は話題性があるので何回も週刊誌などが取り上げた。そのために多くの人が気づくようになった。だが広告の問題はほとんど書かれなかった。それはやはり某巨大広告会社への「遠慮」があったからではないかと思える。

最初に書いたように、ここでの文章は1980年代後期から90年代初頭くらいまでの話で、今は多くの会社が不動産業に依存しているようだ。だが、それは国が新聞社の社会の公器としての公共性を鑑みて、過去に優良国有地を格安に社屋地として払い下げたから可能なのだ。

不動産業で生き残るならそれでもいいが国が国有地を格安払い下げをしたのは新聞社が社会の公器だからだ。社会の公器としての責任を放棄するなら「国有地を返せ」と言いたくなる納税者がたくさんいるだろう。こうして見るとまだタブーは多くあるようだ。