私は日々、死んでいる
2010.10.20

私は日々、死んでいると自分で感じる訳 です。それは細胞レベルで死んでるのかも知れないし人格が変わることで自分の個性が日々、僅かながら変貌しているのかも知れない。確実に言えるのは15年 前の私と今の私はほぼ別人であると言うこと。同じようなブサ面をさらしているからわからないだけだ。これが10代の頃の私と今の私では完璧な別人である。 DNAが同じというだけだ。

時々、私は不思議に思うのだが世の中には永遠の生命を求めて自分の脳とか細胞を保存している人がいる。だが将 来、同じDNAを持つ個体が表れても、それは完璧な別人である。何故なら竹本秀之の半分は優しさでできている、いやそうではなく1956年に生まれコンゴ に行ったり様々な経験を経て今の自分があるのであり、DNAが同じ個体がいたとしても、それは決して私では無い。私を構成する様々な要素がない。

家 族にアルツハイマー病患者が生まれてから益々そう感じるようになった。そうした人たちは日々、加速度的に死んでいる。呼吸をし食事を取り歩き回るから「生 きている」とは限らない。それを言い出すなら統合失調症の兄も30数年前に死んだと言えるだろう。今、私が世話をしている人はほぼ別人。非常に冷酷な指摘 だが、そういう風に考えるようになる訳です。

もっと大きく考えると私が数十年間生きて、何らかのDNAへの貢献があったかというと何も無 い。獲得形質がドウタラと言い出すと話がややこしくなるが、たかだか私程度の人生で生物として変わる訳がないのだ。これはポジティブにもネガティブにも捕 らえることができる。否定的に見ればたいして意味のない人生だったとなる。肯定的に見れば、DNAレベルの変化がおきてないのだから世界に無数の「竹本秀 之」クローンが存在することになる。見方によっては永遠の命である。

最大の問題はDNAのレベルで死への恐怖が刷り込まれていることだろ う。人が死ぬことが怖いだろうか?これは完璧に違うと考える。自分と自分が愛する者が死ぬないしは破壊されるのが怖いのであり、無関係な人が死んでも普通 の日常が続く。何回も書いているが第2次コンゴ戦争で540万人が死んだ。恐るべき死者である。しかしアナタも私も普通の生活を送り、晩ご飯に酢豚を食べ るか餃子にするかで悩んだりした。要するに自分が愛着を持ってない場合、他人が死のうと恐怖はおろか何ら感慨を覚えない訳だ。

というのが私の死生観なのだが、決まって「人権派」とか「非暴力平和主義者」から人間の心を失った人として非難される。だが本当に心を失っていればコンゴ戦争を契機に鬱病になることも無かったのだが・・・

追記

大 学生の頃、異様に死ぬのが怖かった時期があった。これは英語ではnecrophobiaという病名がちゃんとついている。その時に考えたのがインスタン ト・サトリである。要するに仏教で言う悟りを何らかの薬物により脳内で人工的に再現し、その薬を飲むと自分の死を客観的に受け入れることができるというも のだ。

しつこく繰り返すが恐ろしいのは自分と自分が愛着を持つ者の死であり、アフリカで百万人死のうと普通の人は何も感じない。大きな精 神的な苦痛を持つのは大江健三郎のように100%愛情でできている人だけだ(笑)。なら、薬物により自分を切り離して「他人」として見ることができれば死 ぬのは怖くなくなる。苦しいだけの通過儀式になるだろう。

大学生の頃は、自分が70−80になる頃にはインスタント・サトリが市販されており、恐怖の無い死を迎えるだろうと考えていたのだが残念ながら間に合わないようだ・・・