ラリー・ニーブンの予言
2010.12.24

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%9
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『魔 法の国が消えていく』(The Magic Goes Away)は、アメリカの小説家ラリイ・ニーヴンの小説、または同じ世界を舞台とした小説のシリーズ。魔力をエネルギー源として扱ったことから話題を呼 び、ロジカル・ファンタジーとも呼ばれた。ニーヴンの作品に触発された作家たちが、同じ世界を舞台とした作品を執筆し、短篇集が出版されている。

引用終わり

上記の小説を読んで私は魔法が有限の資源であるという考えに感動した訳です。英語で読んだのか日本語訳で読んだのかハッキリ覚えてませんがコンセプトが明確で理解しやすかった。

(70年代後期は日本語訳で読んで良いと思ったものは英語でも読んでいた。トルキーンの指輪物語も日本語で3回、英語で3回読んでいる)

この魔法は有限の資源であるという考えを芸術にあてはめてみよう。

1.音楽の場合

音 楽において魔法を感じる瞬間は確かにある。それはキース・ジャレットのピアノ・ソロの展開であったりザイコ・ランガ・ランガのセベン(ダンスパート)にお けるポポリポのギター・ソロだったりする。問題なのは、そうした魔法は何回も聴いている内に消え失せてしまう点にある。1980年頃まで、それは大きな問 題では無かった。何故なら「次の新しいもの」が出てくるという期待をみんなが持っていたからだ。残念ながら、この期待は裏切られ音楽は果てしない劣化コ ピーの無限ループに入っていく。その理由は音楽資源が有限だったからだ。

この部分はすでに書いたが、要するに80年代中期までは白人音楽 として蓄積されたものと黒人/アフリカ音楽として蓄積されたものの組み合わせがまだ無限に残されているという根拠のない楽観論があった。だが90年代に入 ると多くの音楽ファンが行き詰まりを感じた。それは音楽の魔法は白人音楽と黒人音楽の蓄積の組み合わせで生まれており、全ての有効な組み合わせを使いきっ た後に音楽の魔法は存在しなかったのだ。つまりラリー・ニーブンが小説で指摘したように「魔法は有限の資源である」ことが音楽で証明されてしまった。

2.美術の場合

こ こでは西欧的な文化の蓄積と日本独自/日本に残るアジア文化の蓄積の組み合わせがマンガやアニメの形で昇華された。それは燎原の火のように世界に広まっ た。私がブラジルにいった時にTVをつけたらXuxaの番組をやっていた。Xuxa(シューシャと発音)は日本ではほとんど知られてないがブラジルでは最高 のアイドルだった。彼女は夭逝したアイルトン・セナの恋人としても知られている。この人の番組(Show da Xuxa)の半分くらいは日本のアニメだった。

パリに 行った時にTVをつけたら雪の中で金髪のオネーチャン達がボールを投げ合っていた。この人たちは何をしているのだろうと私は不審に思って見たが、それは 「ドラゴン・ボールZ」の番組予告をやってるだけだった。ドラゴン・ボールは理解できないことも無いのだが、続いて流された日本昔話アニメには驚いた。フ ランス人は桃太郎のアニメを見て楽しいのか?私は疑問に思ったものだ。

こうした現象は結局のところ、西欧美術の膨大な蓄積と日本に蓄積さ れた日本独自あるいは東アジアから流れてきた美術文化の蓄積があり、そこにおいて多くの有効な組み合わせがあったからマンガやアニメが世界にアピールした のだと考える。残念ながら、ここにおいても有効な組み合わせは有限であり、現在、マンガやアニメの魔法は消える最終局面にある。

魔法というのは有限の資源である。私が最初にこの概念を認識したのはラリー・ニーブンの小説を読んだ時だった。この風変わりな概念は私の頭のなかにずっと残っていた。そして音楽や美術の分野で実際に魔法が消えていくのを見た。

魔法が無くなっても生活には困らない。だが私の生活が退屈になったのも事実だ。結局のところ、全ての魔法は有限の資源だったのだ。音楽の魔法が生きていた時代を過ごした者として、それを経験することができただけで感謝すべきだろう。

追記

私 が白人文化を盲目的に崇拝してるように見えるかもしれないが可能性としては日本がヨーロッパを抜くこともありえたと考える。だがヨーロッパと異なり、東 アジアにおいては大陸アジアが果てしのない文化破壊活動に陥り、日本の足をひっぱった為に日本の持つポテンシャルを完全に出し切れなかったと私は考えるの だ。残念ながら、この状況は今も続いているようだ・・・・