左翼思想と日本の経済学の変遷
2011.03.31

(この文章は本来、書く予定だった内容を大幅に「薄めて」います。理由は省略します)

戦後、一貫して日本における主流経済学はマルクス経済学だった。この文章は冷戦時代におけるアメリカvsソ連の関係を自由主義経済学vsマルクス経済学に置き換えて考えようというものだ。

理由は不明だが日本においては新自由主義の経済学者は拝金主義の成金で市場の盲目的崇拝者でアメリカの犬だとされている。恐らく、そういう主張がでてくるのは日本における新自由主義経済学の胎動初期を知らないからだと思う。

例 えば私のゼミの先生だった蝋山昌一氏は1970年代後半、「日本の銀行は大蔵省による護衛船団方式のなかリスクを取ろうとしない。また自己資本も低い。こ れではダメだ。日本の銀行は必ずダメになる」と何度も主張された。だが当時、世界の銀行ランキングを見ると時価総額でも預かり資産でもトップ10の半分以 上を邦銀が占めていた。当然ながら蝋山氏の主張をとりあげようというメディアは存在しなかった。講演以来も無かった。親米であったのは事実だが、研究室に CIAから電話が入るというようなことも無かった(と思う)。はっきり言って絵に描いたような貧乏学者だった。大体、文部省が研究予算をよこさないのだか ら話にならない。しかし大蔵省の財政金融政策を全面否定するような学部や学者に予算がつかないのも当然とは言えた。

私はゼミの中で日米の経済力比較をするのにマクドナルドのハンバーガーを使用してみようという話を聞いた。今なら購買力平価で簡単に片づけられるのだが、英国雑誌エコノミストがビッグ・マック指数を取り上げる数年前の話だ。蝋山氏の考えはここまで進んでいた。

今 の新自由主義経済学者は随分、羽振りが良いように見える。だが、その「支援資金」はどこから出ているのか?私は大きな疑問を持つ。少なくとも1970年代 の大阪大学経済学部に関して言えば、どこからも資金提供は無かった。70年代の阪大経済学部が新自由主義一辺倒では無かったのは事実だが、新自由主義経済 学者が多数いたのも事実だ。そして、みんな「貧乏」だった。何故なら予算がつかないからだ。文部省が予算をつけなかったからだ。

当時、主 流の経済学はマルクス経済学だった。お金儲けに関して言えばマル経のほうが遙かに儲かった。何故なら、東大をふくむ全国主要大学全てがマルクス経済学主体 であり、アカデミック・ポストが無数にあったからだ。そもそも大学に予算や科研費をつける大蔵や文部の官僚がマルクス経済学徒なのだから話にならない。

こ こには大きな誤解がある。拝金主義だったのは新自由主義経済学者ではなくマルクス経済学者である。実際、当時の年収とか家の大きさとか調べれば今でも確認 できるだろう。つまり新自由主義経済学者は儲からないことを承知の上で、自分たちの学問上の信条のために生活(水準)を犠牲にしたのだ。この点はキチンと 指摘しておきたい。何故なら事実だからだ。

それはオマエの卒業した学部(阪大経済学部)が田舎のマイナー学部だからだろうと言う指摘に対 しては1945年から2000年までの国際的な日本の経済学部ランキングにおいて阪大経済学部がトップだったという事実のみ指摘しておく。何故、そういう 結果が出るかというと海外においてはマルクス経済学の「論文」は論文としてカウントされなかったからだ。阪大経済学部は極めて少人数の世帯であり、また予 算もつかなかった。だが国際的な評価は高かった。何故かというとマルクス経済学を全く扱わないために論文生産性が高かったからだ。

(注:これは別に阪大経済学部の学生が優秀だった訳ではない。むしろ全国でマル経に不満を持ちながらくすぶっていた有意な人材を積極的にスカウトした結果だ。そうしたスカウトされた人材には竹中平蔵、吉川洋、太田弘子、植田和男などがいた)

ここまでは知る人は知っている事実であり新しい部分はない。私がこの文章で取り上げたいのは本間正明氏である。

あ れは私が学部に上がっての最初の講義だった。当時の阪大経済学部では経済原論と財政論の2つが必須主要講義になっていた。この財政論を講義していたのが本 間正明氏だった。本間氏は当時、32−33歳で痩せており、私は最初、老けた学生だなと思ったくらいだ。本間氏は財政論を始める前に2つの心構えを説かれ た:

1.本学(大阪大学経済学部)ではマルクス経済学は一切、教えません。もしマルクスを勉強したいならすぐに退学届けを出して他の大学に移ってください

2.本学ではケインズ経済学も教えますが、決してケインズの考えが経済学だと勘違いしないように

2. の点に関してはマネタリズムの強い影響下にあったですますことができる。問題は1.である。マルクスをやりたい連中は大学から出て行けと講義で公然と主張 したのだ。それがどうしたと言われるかも知れない。確かに2011年の今の時点では何ら新鮮味が無い。だがこの発言は1970年代中−後期に繰り返し為されている のだ。

私は高校生の頃からマルクス−左翼思想が嫌いだったので、この本間氏の発言にしびれた。しかも本間氏は32−33歳の若手学者だった。若手学者が公然と当時の権威だったマルクス経済学に対する敵意をむき出しにし闘争宣言をしたのだ。

た だ客観的に見ると「本間発言」は相当に危なかった。まず当時はまだ学生運動が普通に生き延びていた。また大学の教員はともかくとして事務職員や生協などは完璧 に左翼だった。つまり「マルクスを勉強したいものは退学届けを出せ」と講義の冒頭で宣言することにより本間氏は無数の敵を作った。自分の学者生命あるいは 生命そのものを危険にさらした。2011年の今では理解できないかも知れないが、1970年代日本の社会は考えられないほど左傾化していたのだ。

では何故、本間氏は上に書いたような自分の学者生命あるいは生命そのものを危うくするような発言を公然と繰り返したのだろうか?これは本人に聞くのが一番良い。今も存命で活動されているのだから。だが私は私なりの解釈をしてみよう。なお事実かどうかは保証しない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E6%AD%A3%E6%98%8E

これを見るとわかるのだが本間氏は1944年、つまり敗戦の1年前にカラフトに生まれている。戦後、どうやって本土に帰ったのか、その過程で何があったのか私は一切、知らない。だが、敗戦後の引き上げとその苦労がソ連に対する「懐疑心」をひきおこしたことはありうる話だ。

つまり私の仮説では本間正明を新自由主義経済学に駆り立てたのは、戦後引き上げに端を発するソ連、計画経済、マルクス経済学への「敵意」だったことになる。

新自由主義というとミルトン・フリードマンとかシカゴ学派という名称が出てくる。だが個人的に最も重要なのはロナルド・レーガンが新自由主義を進めたという事実である。そして冷戦におけるアメリカの勝利をもたらしたのはレーガンなのだ。

つまり私の主張は新自由主義は経済学思想というより冷戦構造の中でのアメリカの理論武装と見るべきではないかというものだ。

追記

本間正明氏が安部内閣において政府税調から石もて追われた部分に本当の陰謀論があるのだが、残念ながら個人のプライバシーなど考慮しなければいけない点が多数あり、ここでは割愛する。また社研/小野善康に関する部分も割愛する。