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何故、TVは愚民メディアになったか? 2011.04.08
大変、恥ずかしい話になるのだが20台後半、私は英語がマスターできたと思った。決して覚醒剤をやってた訳ではないが、TOEFLも630数点(正確な点数は忘れた)で、この点数はハーバードの文学部に入れる点数だと言われた。
だ
が常識として、そのような事はありえないように思えた。ある日、私は一室に朝刊を持ってこもり、32ページの朝刊記事を全部、読んだ。驚いたことに自分が
理解できない表現や読めない漢字が100近くあった。実態は日本語すら理解できていなかったのだ。こういう事を書くと言語学系の人は「そんな不毛な主張を
するべきでない」と言うのだが、自分では英語はともかく日本語はマスターしてるつもりだったので大きなショックを受けたのも確かだ。要するに何となく気分
や雰囲気で「自分は日本語ができる」と考えていた訳だ。
最近の新聞はエイズにかかったのか日々、薄くなりやせ細る一方だが、80年代の新
聞の情報量は半端ではなかった。もちろん全ての記事を読むことは不可能なので自分好みの記事をつまみ食いすることになる。馬鹿げた記事も多かったが、それ
らは読まなければ良い。つまり一方的に情報を垂れ流してくるTVとの比較で新聞は遙かに良質の媒体だった(ここでは議論を単純化するために偏向報道には触れな
い)。
新聞も相当に劣化したのだがTVの劣化に比べれば、まだ「正気」をいくぶんか保っている。何故、TVはここまで劣化したのかを広告の面から考えようと言うのが今回の文章だ。
TV
の広告の特徴の1つに食品CMの多さが挙げられる。そして食品CMを出す側にしてみればTVを見る層が知的であるかアホの集団かは関係ないのだ。大学教
授が飲むドリンクも道路掘削作業員が飲むドリンクも同じ利益をもたらす。むしろイメージを刷り込みやすいという点では道路掘削作業員のほうが望ましい消費
者と言える。一方で昼間のTVを見ているのは専業主婦か老人だ。彼らが馬鹿だと言うつもりは毛頭ないが「知的好奇心に非常に乏しい社会階層」であることは
確かだろう。
つまりCM面からTVを見ると、視聴者がどんどん馬鹿になってCMに簡単に感化され、ゾンビー化することが理想になる。一方
で新聞の場合、「広告において度をすぎた単純化は許されない」という考えがある。あるいはあった。例えば不動産広告では必ず掲載しなければいけない条件が
たくさんあった。昔の皮肉に「駅から十分(じゅっぷん)ではなく駅から十分(じゅうぶん)だろう」というものがあった。他社はどうか知らないが1分は確か
60m(?)に決められていて、そこから割り出していたと思う。不審な広告の場合、実際に現地に行き駅から歩き物件を確かめていた。つまり新聞はそれなり
に知的な層の要求や判断基準に応えようとした。
残念ながら生き残ったのは新聞ではなくTVのように私には思える。その最大の理由は新聞が
印刷、発送、宅配といった地に足がついた現業を抱えていたのに対し、TVの場合、番組制作は制作会社に丸投げ、広告募集は電通ほかに丸投げでほとんど現業
部門がないことが大きいように思える。簡単に言えば電波利権は巨大利益をもたらすのだ。
比較において良心的なメディアが廃れ、白痴メディアが生き残るのは不当だと私は思うが、TVに出て有名になりたい、媚びを売りたいという学者や政治家などがたくさんいるのだから当然の帰結とも言える。
もし、そうしたメディアの退化の結果として現在の菅直人政権と原発対応(あるいは不対応)があるとしたら、これほど日本に取り不幸なことはないだろう。
個人的な話になるが私はここ30年ほどTVを見てない。だが私が購入する物全てにTVのCM代金が含まれている。実際、日本の戦後において広告費が最も向かったのはTVだった。何故、私はTVを見ないのにCM料金が上乗せされた物品を買わねばならないのか?
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