一匹狼が群れをなした
2011.04.19

今 日の午前中にJA/農協系のお店に野菜を買いにいった。ここではいつも同じ曲を流している。歌詞を引用すると音楽ヤクザに因縁をつけられるので止めるが大 意としては「私は自分の考えるところを一人進んでいく」というものだ。福山雅治かと思ったが、どうもセミプロ歌手の曲のようで検索で出てこなかった。

JA と言ってもどうせ全農/農協なのだから北海盆歌のような景気の良いダンス曲を流せば良いのに、そうしたらオレがキンシャサ仕込みの「桜吹雪乱れ打ち」太鼓 を披露するのに、いつ行っても上に書いたフォーク調の陰気な歌を流している。そうした歌は私が新聞社で働いていた頃にすでにあった。ご存じ、谷村新司氏に よる「昴」である。この曲はカラオケ持ち歌として非常に人気があった。特に部長の持ち歌であるために事情を知らない新人に対し「部長が歌うまで歌ってはな らない」という事前レクチャーが行われた。それほど人気があったのだ。

しかし、これはおかしいと思いませんか?新聞社は社屋地は格安に払 い下げられた国有地、販売における押し紙は明白に独禁法に反しているのにおとがめなし、広告に関しては未だに私以外は語る者がいないほどの「状況」だっ た。つまり日本社会において特権階級として既得権益を満喫している者がカラオケで「自分はあくまで自分の信じるところを生きていくのだ」という趣旨の歌を 競って歌ったのだ。

しかしである、みんなが「我が道を行く」と同じ歌を歌うということは既にそこに集団が生まれていることに誰も気が付か ないのだ。ここに裏金とか政党助成金とかお金を入れれば簡単に派閥になってしまう。一匹狼というのは群れないから一匹狼であり、群れたらただの狼の群れで あるという単純な真実に誰も気が付かないのだ。実際のところ「昴」というのは派閥宣言ではないかとすらサラリーマン時代の私は思っていた。

一方で、このサイトにある膨大な文章を読まれた方はご理解いただけると思うが、私のほうが遙かに「自分の信じる道を行く」思想の持ち主であり実践者なのだ。実際にキンシャサを始めとしたアフリカ都市の深夜を一人で歩いた。

で は何故、私は谷村氏のように「嗚呼、青白き頬をして我、一人いかん」と書かず、また自分の曲のメッセージとして入れないのか?これは簡単だ。日本社会で本 当の意味で「我が道を行く」ことがどれだけ異端視されるか、どれだけ危ないかがわかっているからだ。わかり安く言えば私は当局の監視対象になりたくないの である。

つまり日本社会において「我が道を行かん」と歌う人は基本的に安定派閥志向であり、本当に我が道を行く人はそうした考えの持ち主が日本社会でどう扱われるかを骨身に染みてわかっているので口を閉ざしてしまう。

残念ながら、これが日本社会の真実のように私には思える。