宗教はアーリア族固有思想である
2011.08.13

お断り

私は宗教研究家ではない。以下の文章に間違いがある可能性は高いが「馬鹿が寝言を言ってる」と思って笑い飛ばしていただきたい。


さて、2chで下の記事をベースにしたスレッドが立っていた。

引用

時事通信 8月12日(金)12時45分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110812-00000060-jij-pol

菅内閣の全閣僚は12日の閣議後記者会見などで、15日の終戦記念日に靖国神社を参拝しない考えを示した。昨年も全閣僚が参拝を見送った。中国や韓国などアジア諸国との関係を重視する民主党政権の姿勢を反映した形だ。

菅直人首相は昨年の就任後の参院本会議で「首相在任中に参拝するつもりはない」と言明。事務所は「(今年も)行く予定はない」としている。

江田五月法相は参拝しない理由を「靖国神社は先の戦争で国民を戦争に駆り立てる役割を果たした。戦争責任や諸外国に迷惑を掛けたことを考えるといかがなものか」と説明。

引用終わり

国家神道と伝統的な神道の違いがあるが、私のイメージでは神道は戦とか争いとは結びつかない。むしろ仏教のほうがはるかに戦闘的だと思う。実際にインドでは仏教徒による暴力的な宗教紛争は普通にある。国際ニュースで見る。いや、日本でもかつて仏教は闘う宗教だった。

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86

一向一揆(いっこういっき)は、戦国時代に浄土真宗(一向宗[1])本願寺教団の信徒たちが起こした一揆の総称。

浄 土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。本願寺派に属する寺院、道場を中心 に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来(阿弥陀仏)の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う士豪的武士や、自治的な惣村に集結 する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。

1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。

引用終わり

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。

梵 名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明 の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽という仏国土(極楽浄土)を持つ(東方は薬師如 来)。

浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。

末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力[4])では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力[5]」によってのみ救済されるとする。

引用終わり

仏 教の知識が無いので教義がどうこうと言う話題は省くが、この阿弥陀仏はインド人である。そしてインド人の教えに比較的忠実な一向宗を信じていた頃、日本の 仏教徒は闘争的だった。それが、葬式仏教に今、成りはてているのは江戸時代以降、お寺が門徒という形で日本人の戸籍を管理することになり(今の総務省住基 ネット?)、そこに大きな既得権益が生まれ、アグレッシブに門徒を集める必要が無くなったからだというのが私の理解だ。

引用wiki

檀 家制度(だんかせいど)とは、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう[1]。寺檀制度(じだんせいど)あ るいは寺檀関係ともいう。また、江戸幕府のキリスト教禁止令において説明される場合には、特に寺請制度(てらうけせいど)と呼ばれる。[要出典]

仏教に関わるものであるが、江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つなど、日本特有のものである。[要出典]

引用終わり

要するに、日本人本来の宗教は神道なのだが江戸時代以降、治安維持のためキリスト教は排除され、仏教が国民管理用の宗教となったと言っても良いだろう。

そこで私は思ったのだが、世界の主要宗教を考え出したのは全部、アーリア族じゃないか!(ここではアーリア族=インド・ヨーロッパ語族としています)。

英語と日本語wikiを参照したが、間違いないようだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Religion
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
(同一内容を扱った日本語wiki)

4 大宗教としてキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教が上げられているが、全てアーリア族の考案である。他にもたくさん挙げてあるが、私には主要な宗 教は全てアーリア族が考案者であるように思える。これまで私は特に根拠もなく、宗教と言うのは人類普遍の「思想」であると思っていたのだが、上の英語 wikiを見る限り、むしろアーリア民族固有思想が世界に広まったというべきだろう。

そうした状況の中で異彩を放っているのが、日本の神 道である。英語wikiでは中国のタオイズムと同一視されているが、神道は神道であり、中国とは関係ないと私は考える。歴史の長さにおいても主要宗教と大 差ない。ところがアーリア系宗教と神道には大きな違いがある。契約の概念がドウタラ、コウタラはすでに書き尽くされているので、あくまで自分の考えを書い てみる。

1.アーリア系宗教には創造主である神が存在する(唯一神が多い)
2.神はたくさんの物を創造したが、最高の創造物は人間である
3.ところが神の力をしても人間を完全な形で作ることはできなかった
4.神は、この点を残念に思い、何とか人間を救ってやろう、最終的には善にみちびいてやろうと考えている(神の愛、キリスト教では摂理とも言う)
5.だが、人間もまた神の教えを学び日々実践し神の期待に応えなければならない
6.神の愛と人間の努力、両方があってはじめて人は救われる

対して、神道はどう考えているか?

1.神がどういう形で現れるか決まっていない
2.日常生活で、何らかの畏怖を感じる時、そこに神が存在する
3.人間が完全であるかどうかは神道では問題にされてない
4.神は特に人間を救ってやろうとは考えていない
5.だが最後は何とかしてくれるという人間側の期待感はある(神の情け)
6.人間が完全であるかどうかを問題にして無いので、日々守るべき教えも特にない
7.だが疫病が流行ると多くの人が死ぬので衛生状態には注意しろ(清潔さの強調)

アーリア系の主要宗教から見ると、神道はとても宗教とは呼べない。だが、何故、人々は宗教を必要とするかというと社会的規律とモラル維持のためだろう。そして、そうした観点から見ると、神道は十分に機能しているように私には思える(ここでは魂の救済にはあえて触れない)。

神 道は原始宗教とかアニミズムとか言われている。それはあくまでもアーリア民族系宗教との対比で、そういう指摘が可能なのであり、社会安定メカニズムとして 宗教を見るとき、日本の神道は立派に「宗教」として機能しているではないだろうか?何故なら、アフリカやラテン・アメリカにある原始宗教は社会規律維持と いう点において機能してないからだ。

追記

大体、日本語に元々、宗教という言葉/表現が存在したのかどうかも疑わしいと私は考える。日本語wikiは下のように解説する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
(日本語wikiによる宗教の解説。英語版ほど詳しくないが主要な項目は解説してある)

日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。

原 語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組 み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた[6]。

引用終わり