理解されることを拒否する文章
2011.09.19

Twitterを始めるようになって内田樹という人がツイートで引用されているのをよく見るようになった。正直、私はこの人を知らなかった。というか内田樹という姓で下の名前はタカシとかだと思っていた。要するにウチダキという姓だと思っていたのだ。

http://blog.tatsuru.com/

ウチダ・タツルというのが正しい読み方らしい。失礼いたしました。さて、この人の文章を読むと典型的な朝日・岩波教養人であることがわかった。朝日新聞の出版物の中には優れたものもあり、私は読まない訳ではないが岩波との相性は悪く、まず読むことは無い。

さ て、イントロはこのくらいにして、自分の主張に入ろう。この内田樹という人の文章は何回、読んでも理解できないのだ。それはオマエが馬鹿だからだという批 判は甘受するとして、何故、この人の文章の意味を私は理解できないのだろう?今回は現時点で最新のエントリー文章を元に考えてみたい。

2011.09.16
情報リテラシーについて

まず最初の段落から引用

「情報格差社会」

情 報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難 民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した 理由について考えたい。

引用終わり

この「情報の無政府状態」は具体的に、どういう事態を想定しているのか?一般には左翼 ないしはリベラリズムがさらに過激になると政府の存在そのものを否定するようになる。これが通常の意味での無政府主義だ。で、情報における「政府」は一 体、何なんだ?私はこれまで「情報の政府」が存在することすら知らなかった。

当然、次の段落で「情報の無政府状態」が何を意味するのかが 説明されるはずだ。だが突如として、日本における全国紙の普及状態の話になる。そして欧米との対比で、日本人が新聞を読むことを内田樹氏は「情報平等主 義」と呼ぶ。そして、この「情報平等主義」なるものが崩れてきたことが内田樹氏の考える「情報の無政府状態」らしい。らしいと私が書いてるのはハッキリと 内容を規定する部分が無いからだ。

強いて言えば、ネットの台頭と新聞情報の劣化により「情報のプラットフォーム」を共有して無い状態が「情報の無政府主義」らしい。これは、ただの言葉遊びだ。

ネットの普及と新聞を取らない人の増加で情報多様化がおきている、1行で表せる。

無政府状態とか関係ないのだ。最初から情報の政府は存在しなかったからだ。いずれにせよ内田樹氏が日本国民に情報選択の自由が無かった結果、情報が均質だった時代を郷愁を持って回想しているのはわかった。

次の段落ではネット利用者も良質の情報を享受している人とそうでない人に分かれるという当たり前のことが書かれている。それは現実社会でもそうでは無いのか?

引用

「情 報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。 ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざであるという「インサイダー情報」が溢れか えっている

引用終わり

(何故、一般的な陰謀論でなく陰謀史観に内田氏が限定しているのか理解できないので勝手に陰謀論と解釈する)

確かに阿修羅サイトなどは陰謀論だらけだ。だがノストラダムスは基本、書籍ビジネスだった。国家破産も書籍ビジネスだった。正確には書籍と著者講演会が結びついた複合ビジネス・モデルだった。

ネッ トがノストラダムスで溢れかえっていたか?私の記憶では違う。ネットが国家破産論で溢れかえっていたか?新聞やTVと同じ程度に溢れていた。つまり陰謀論 自体は私の認識では、書籍ビジネスである。従って、ネットで無料で陰謀論を展開しても意味がない。何故なら、ネット陰謀論でお金を儲けるビジネス・モデル が存在しないからだ。

引用

「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについ ての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼ら は朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退 ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。

引用終わり

ど うやら、内田氏が主張したいのはこの部分らしい。理由は不明だが内田氏は「陰謀史観」と書いている。史観ということは何らかの歴史解釈である。一般的な陰 謀論とは違う訳だ。何故、ここで歴史観だけが取り出されているのか私には理解できない。より一般的な用語である陰謀論では不味いのか?

いずれにせよ内田氏の主張によると陰謀史観がネット利用者に全能感を与えるから新聞やTVの情報を信じないようになる。だが、それは間違った態度だと内田氏は主張しているようだ。

引用

情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。
その具体策について述べる紙数が尽きた。

というのが原稿。

引用終わり

情報の二極化がいま進行していると内田氏は書いているが、文章の最初から中盤までは日本国民の情報格差の広がりを論じていたのではないのか?文章の整合性が取れてないぞ(笑)。

勝 手に推測して、内田氏は朝日新聞社説などの良質な情報(笑)がネットにはびこる陰謀史観により駆逐されていることを指していると解釈する。それにより権力 やお金の不平等がおきる。つまり、裕福で権力とつながっている新聞読者とニートで陰謀史観に取り付かれたネット利用者の所得格差が拡大するらしい。そして 内田樹氏の考えでは、それを阻止するためには新聞の復権が必要らしいのだが、都合良くページがつきた為に理由は「割愛」されている。

その続きがネット限定版として書かれている。この部分は用語レベルで私には理解できない。例えば

− 「階層化」というよりはむしろ「原子化」である

− 中立的なメタ認知能力を失いつつある

− フッサールの「他我」の例で繰り返し引用したが、私が一軒の家の前に立っているとき、私にはその前面しか見えない

− 経験の真正性を担保してくれている「想像上の私」たちのことをフッサールは「他我」と呼んだ。

− それゆえ、「主観性とはそのつどすでに間主観性である」と現象学は教えるのである

− メタ認知とは、コンテンツの問題ではなく、主体の問題だからである。

− それはカール・ポパーのいう「反証可能性」のありかたと同一である

などである。私は内田樹氏に一言、いいたい、「アホですんまへんな」。正直、全く理解できないからだ。

こ の文章の問題点は、この文章の難解さ自体にある。何故なら内田樹氏は、現在、情報格差が広がっており、これが権力や富の格差につながることに大きな危機感 を持たれている。そうであるならば、一般大衆が読んで理解できるように書かれるべきだ。上の文章を読んで官僚や頭の良い政治家は意味を理解できるのかも知 れない。だが情報格差、権力や富の格差の広がりは法律を何本か通せば解決する問題なのだろうか?明らかに違う。国民草の根レベルで理解されるべきテーマ だ。では内田樹氏の文章を読んで意味を理解できる日本国民がどれだけいるだろう?

こう書くと内田樹氏は「いや、私は情報のありかた自体を問うメタ情報論を提示しているのだ」と反論されるかも知れない。だが、そうした論理階層のレベルで論理学/集合論を理解している日本人がどれだけいるかと言えば1%以下だと私は考える。

つ まり内田樹氏の難解な文章は最初から内輪サークル向けに書かれており、一般大衆は相手にしてないのだ。一般大衆を相手にしてないのに、一般大衆が理解でき ないと変えることができないトレンドについて内田樹氏は延々、解説している。これをフッサールは自家撞着と呼んだ(笑)という噂を聞いたような気がする。