公務員の数に関する私の意見
2011.12.04

まず身近の話をしたい。兄の病気、母の病気、父親の高齢と3つ重なっているために、買い物、食事、風呂を洗い、入れる、こうした家事は私が全てやっている。昔はゴミの袋詰めと指定日出しも私がやっていた。今はやらなくなった。この部分からはじめたい。

昔は私が全てのゴミの分別と回収場までの持ち込みをやっていた。実際、近所の人は何回も見ているはずだ。それを止めたのには理由がある。

まず母親の病気が進み、生ゴミの袋の中に発砲スチロールのトレーなどを入れるようになった。そうしたゴミ袋を回収場に持っていくと中身をチェックされ「持って帰って分別しろ」と言われる。

し かし魚の頭などの生ゴミと一緒になっている状態からトレーを取り出すのは大変な作業だ。私は母親に「トレーを入れないでくれ」と何度も頼んだのだが、病気 なので状況は全く改善しない。しかたないので私は「もうゴミ出しはできない」と宣言した。それ以降、母親が自分で持って行くようになった。もちろん生ゴミ のなかにトレーがたくさん入っている。

大体、何故、5−7種類もゴミを分別しなければいけないのか、その部分で疑問がある。最初はダイオ キシンから始まった。例えば「所沢のお茶にダイオキシンが含まれている」というTV報道があった。正しいかどうかは別にして話題になった。それを契機にダ イオキシンの危険性が喧伝され、最終的に5−7種類のゴミ分別をするようになったと私は理解している。

ところで福島第一原子力発電所事故以来、日本での放射性物質の量は明らかに増えている。また横浜の例から、過去数十年に渡り、海外から日本に放射性物質が飛来してきたことも明らかになった。恐らく、中国が内陸部で行った核実験の残滓が黄砂として飛んできているのだろう。

横浜の例

引用

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011112502000027.html

横 浜市港北区の泥などから放射性ストロンチウムが検出された問題で、文部科学省は二十四日、「福島第一原発事故とは関連がない」との見解を発表した。市から 送られた泥などの分析で、半減期が約五十日と短いストロンチウム89が検出されなかったことなどから、「過去の核実験の影響とみられる」と結論付けた。

引用終わり

私には、こうした放射性物質の増加が果たして本当に大きな健康問題かどうか判断する能力がない。だが過去、数十年に渡り、毎年「被曝」してきたのに今更、騒ぎ立てることに違和感を感じるのも事実だ。

さて、ここで横浜で検出されたストロンチウムとダイオキシンの毒性を比較してみよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%8
3%81%E3%82%A6%E3%83%A0
(ストロンチウム毒性)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%8
2%B7%E3%83%B3%E9%A1%9E
(ダイオキシン毒性)

どう考えてもストロンチウムのほうがダイオキシンより遙かに危険だ。そして、その危険なストロンチウムに何十年とさらされて生きてきた日本人がダイオキシンを理由にゴミ回収を厳格化するのは理にかなってないと考える。

昔のようにダイオキシンを気にせずゴミ処理をし、その労力を放射性物質回収に向けたほうがずっと国民の健康に役立つのではないだろうか?つまり私はゴミ分別の簡略化を提案しているのだ。

一端、ゴミ回収から離れる。

今、若者を中心に職につけない人が多数いる。私は、ある種の特別な技能を必要としない地方公務員職の給与を半分にして倍の数を雇うことを提案したい。

公 務員の数の増加は経済政策として大きな意味がある。何故なら、金融機関がローンやクレジットカード発行などの与信を行う時、最も優先されるのが公務員だか らだ。従って、若者の多くが給与が低くても地方公務員になることで、消費が大きく伸びる可能性がある。また若者消費は将来のトレンドを生み出すという意味 で高齢者の消費より大きな意味を持つ。

ここでも最大のボトルネック(隘路)になっているのは社会意識あるいは差別問題だ。この隘路(あいろ)を抜け出すことで取れる有効な経済政策が存在すると私は考えるのだが・・・

追記

大 体、何故トレーが必要なのか?それは消費者が見た目を気にすることが大きな理由になっている。現実に魚屋や八百屋ではトレー無しで販売している。最初から トレー無しなら分別が楽になる。実際、私は魚屋でメバルをカゴから買っている。八百屋でもタケノコなどをカゴから買っている。

つまり消費者の意識改革も必要なのかも知れないと考えるのだ。