何故、精神障害者のオリンピックが無いのか?
2011.12.04

先日、私が住んでいる山口県で国体が開催された。この国体競技に関するラジオ放送を聴いていて、片腕のない身体障害者の水泳競技が開催されたことを知った。その時に私は思った。

「何故、知的あるいは精神障害者の部が無いのだろう?」

身体障害者も様々であり、腕も足も動かない人たちがいる。つまり、上記の国体水泳競技に出ている身体障害者は比較的、軽い障害を持っている人々と推測できる。

しかし精神障害者もまた、障害の度合いは様々だ。処方された薬を服用していれば社会生活ができる軽度の人々がいる。当然、水泳も行っている。ならば、精神障害者の水泳競技があるべきだ。

片 腕が無い水泳選手の泳ぎを見て、タイムとか泳法の美しさを評価しているのだろうか?私は違うと思う。「障害があっても前向きに頑張って生きろ」という社会 的なメッセージを出すことが目的だと考える。ならば精神障害者に対しても「精神障害をのりこえて明るく生きろ」という前向きなメッセージを出すべきだ。

そうしたスポーツ競技の頂点にオリンピックが存在する。そしてオリンピックにはパラリンピックという身体障害者の部がある。だが知的あるいは精神障害者の部が無い。

「精神障害者は体は健常なんだから、通常の部で対等に競技に参加しろ」と言われるかも知れない。だが、何らかの競技に秀でるには集中力が必要だ。そして精神障害者はこの集中力などの精神面で大きなハンデを負っているのだ。

実際のところ、日本において知的あるいは精神障害者に対し「自分たちの障害をのりこえて明るく人生をいきろ」と励ます行事が1つもない。あるいは私が無知なのかも知れない。

「障害を乗り越えて明るく人生を生きろ」というメッセージを出す費用はわずかだ。だが、そのわずかな費用すら、精神障害者には回ってこないのだ。

これが現実である。