音楽へのこだわり
2011.12.04

エイズの治療法が全く無かった時代にキンシャサにライブ音楽を聞きに行ったくらいだから若い頃の私には音楽への大きなこだわりがあった。実際、コンゴやアンゴラの音楽を理解しようとしない日本の一般大衆に怒りを持っていた時期もあった。

だが、コンゴ音楽は何故、他の音楽との比較で支持されないのだろう、その理由を研究して見ようと私は考えた。同時に、奴隷貿易などの英語文献も読んだ。20年くらい、そうした「研究」をした。

奴 隷貿易は白人が一方的にアフリカ人を搾取したように書かれることが多いが、本当だろうか?砂糖キビや綿花がアメリカ南部およびキューバの主要産業だった頃 は確かに黒人労働力は役に立ったようだ。だが、調べれば調べるほど、奴隷貿易は「採算を無視した不合理慣行」となっていったというのが私の理解だ。

ある程度、研究して分かったのは、コンゴ音楽は本当に多くの人が指摘するように単純な繰り返しをやっているという事実だった。

だ が、その繰り返しに、「癖」がある。その癖をプラスに評価する人は私のようなコンゴ音楽ファンになる、評価しない人には「同じことばかり繰り返す単調な音 楽」と聞こえることが理解できた。これは大きな一歩だった。つまり平均的な日本人がコンゴ音楽を拒絶することは極めて自然な行為だと理解できるようになっ た。

私は自分の周囲を見回した。そして、ある事実に気が付いた。音楽を聴く、あるいは楽器を演奏するかどうかは、社会人としての適合性と 何ら関係ない。難しい言い回しをしたが、要するにある人が音楽を聴くかどうか、楽器を演奏するかどうかはその人が社会に対し為している貢献と何ら関係ない ことを理解したのだ。

ワインが好きな人はその美味を様々な表現を使い形容する。だがアロマと言おうとフレーバーと言おうと、ワインの最大 の魅力はその適度なアルコールにある。嘘だと思うなら、ゆっくりと時間をかけてワインからアルコールを蒸発させたものを飲んでみるが良い。その不味さに呆 れるはずだ。

同様に音楽もまた本質において社会生活におけるアクセサリーの1つにすぎない。それにこだわるのは自由だが、無視するのも自由だ。私の音楽理解はここまで進んだのだ。真実を理解するには大変な時間と手間がかかるのだ。

では何故、私は50台後半になってもコンゴやアンゴラの音楽にこだわっているのだろうか?それは結局のところ、人は論理で行動する動物ではないからだ。人間は情緒的な動物である。

コンゴ音楽をつきつめた結果、私は「自分はコンゴ音楽が好きだからコンゴ音楽を聴く」という単純な結論に達したのだった。つまり音楽に何ら優劣が無いことに気がついたのだ。

では何故、私はTwitterなどでコンゴ音楽を理解しようとしない人々に毒づいているのか?それは私が理性あるいは論理で生きる人間では無いからだ。