きづなと絆の違い
2011.12.12

誤解されているかたがおられるようだが私の日本語知識とかはデタラメである。

2ch などで社民党党首、福島瑞穂氏の筆記が「子供の落書き」と笑われているが、私の筆記はもっとひどい。「竹本さん、このメモはエジプト象形文字ですか?」と いう疑問が普通に出されるくらいひどい。どれだけ、ひどいかというと書いた本人にもメモが読めない。私は「何を馬鹿なことを言ってるんですか、これはメソ ポタミアに伝わる楔形文字(ヒエログリフ)です」と答えることにしている。好意的に解釈すれば手書きメモの段階で暗号化されている。

さて2011年の今年の漢字が絆に決まった。すでにTwitterに書いたのだが、この言葉に私は大きな違和感を持った。何故か?

まず、この漢字を読めない日本人が人口の15%程度いると考える。そうした人にとっては2011年を代表する漢字は絆ですと言われても理解できない。読めない日本人がいるのに絆が2011年を代表してますと言われても困る。

とりあえず、そうした層は無視して議論を進める。

私 が疑問を持つのは「きづな」という大和言葉(やまとことば)と絆という中国渡来の表意文字は異なる点だ。大和言葉は我々、日本人が何千年と使用してきた皮 膚感覚の言葉だ。はき慣れたジーンズにTシャツと言っても良い。対して「絆」という文字は、その文字が日本に伝来した時に「やまとことばのきづなを絆と書 くことにしよう」と決められただけだ。従って絆という漢字には何ら皮膚感覚がない。

今年は東北大震災や原発事故など色々な事件がおきた。日本の歴史のなかでも特筆すべき年だった。ならば、その特別な年は皮膚感覚で理解できる大和言葉で覚えたいというのが私の考えだ。

私は中国渡来の漢字が悪いとは言ってない。実際、漢字があるおかげで日本社会の文化/民度が上がったのは事実だ。だが同じことは民主主義のような、デモクラシーを無理矢理、日本語化した言葉にも言える。

漢籍が知識人の教養であるとされた時代が日本において長く続いた。例えば、にわか雨と書けば良いのにわざわざ「驟雨」と書くことが教養とされた。

(驟雨はにわか雨とは微妙に異なるのだが、この文章ではニュアンスを無視する)

それって、唯の文化的植民地主義ではないのかと私は思うのだ。

英語直訳のカタカナをちりばめた文章の滑稽さは多くの日本人が理解できる。「メモリ・アクセスにおけるオーバーフローをインターセプトする」という類の文章だ。実際に、そういう文章が翻訳として使用されている。そして笑われている。

だが漢籍に由来する表現は知らないほうが「日本人としての教養が足りない」とされる。これはおかしい。私の言語感覚と皮膚感覚が漢籍由来の表現に「ちょっとおかしいぞ」と違和感を告げるのである。

上に書いた話は言語感覚に関しているので「オレは絆で何ら問題を感じない」と言われれば、それまでだ。だが私の言語感覚は「絆は断じて2011年を代表する漢字/言葉ではない」と主張するのだ。

これは感じ方の問題なので文章をここで終わる。