職を得るまでの茨(イバラ)の道
2011.12.21

就職慣行は時代とともに変わる。従って私が書く以下の就職体験が今の世代の共感を呼ぶかどうかは不明だ。

私が大学を卒業した年において1980年2月29日が当時の就職最終日だった。3月になれば大学の窓口そのものが閉鎖されてしまう。従って既卒者として職を求めるか、留年者として「価値の下がった新卒」として求職活動をするしかなかった。

そして延々と求職活動をしたが就職先が見つからなかったのも事実だ。正確に言うと1979年11月に受けた某英字新聞社が「営業職で良いなら考える」と言った。これを断ったのだからある意味では自業自得である。

1980年2月29日午前中、私は大学に近い安下宿にいた。遊びに出るようなお金が無かったからだ。急に部屋の扉がドンドンと叩かれ「竹本さん、朝日新聞社から重要な通知があります」と言われた。大家さんだった。要するに部屋に電話を引く余裕がなかったのだ。

この電話は朝日新聞大阪本社人事部からのもので「採用が決まったから応じる気があるなら中之島本社に出てこい」というものだった。ここで就職が決まった。

しかし私はこの採用通知に大きな疑問を持った。2月の29日と言えば、99.9%の学生が就職先ないしは留年を決めている時期だ。何故なら翌日は3月1日であり、もはや大学の事務局が休暇に入るからだ。卒業か留年が公式に発表されるからだ。

指定された通り、中之島本社に出向き話を聞いた。おかしなことに私と人事部担当者の一人しかいなかった。

この理由はすぐにわかった。この時の追加採用で約20名近い人員が採用されたのだが、私をのぞくすべてが10日前に採用通知を受けていたことが会話からわかった。

そうした事情があり、滋賀県朽木村の新人研修を受ける時点ですでに辞表を書いていた。これは事実である。

1989年12月末に内容証明郵便で社長宛に辞表を送りつけるまで約10年働いた。よくもったものだ。

とりあえず、この話はこれで終わりだ。私が馬鹿だと思うならそれでもかまわない。何故なら、現状、社会がそう見なしても何ら失うものがないからだ。

私は日本における就業の実態に関して一人でも多くの人に理解してもらいたいと考えているだけなのだ。

追記

2月29日まで「根性が腐っている」「性格が歪んでいる」と批判していた大家さんなどが、朝日への入社決定とともに批判を止めたのも滑稽な話だ。自分の信念から批判していたのではないのか?