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勝てる論争、勝てない論争 2011.12.22
今日、神戸大学教授、木村幹氏とTwitter上で軽いジャブの打ち合いをやった。きっかけは下の文章だ。
引用
nkolomboka 竹本秀之
ビアフラ共和国がつぶれましたが何か?アフリカは無視ですか?RT @kankimura まあ、簡単に言えば北朝鮮からすれば「あれっ、日本ってまだ制裁してんだ」という感じでしょう。そもそも世界には「経済制裁でぶっ潰れた国」はないんですから。 5時間前 お気に入りに登録 返信 削除 »
引用終わり
要するにこちらから論争をしかけたのだ。何故、しかけたか?木村氏の脇が甘いからだ。
「そ
もそも世界には「経済制裁でぶっ潰れた国」はないんですから」という表現には時代とかの制約条件が全くついていない。さらに国が近代国家を指すのか、アフ
リカの部族国家を指すのかも書いてない。要するに人類の長い歴史において国ないしは国に相当する存在が経済制裁で「つぶれた」ことは一度も無いと指摘され
ているのだ。これはあり得ないと考えたから、あえて喧嘩を売った。さらに「国がぶっ潰れる」という表現が何を指すのかも定義されていない。要するに文章が
隙だらけなのだ。
そこでビアフラ共和国、ニカラグアのサンディニスタ政権、アフリカのコンゴ王国の例を出した。それぞれの根拠。
引用
ビアフラ共和国
http://en.wikipedia.org/wiki/Biafra
Economy
Biafran
poundAn early institution created by the Biafran government was the
Bank of Biafra, accomplished under ‘Decree No. 3 of 1967'.[20] The bank
carried out all central banking functions including the administration
of foreign exchange and the management of the public debt of the
Republic.[20] The bank was administered by a governor and four
directors; the first governor, who signes on bank notes, was Sylvester
Ugoh.[21] A second decree, ‘Decree No.4 of 1967’, modified the Banking
Act of the Federal Republic of Nigeria for the Republic of Biafra.[20]
The
bank was first located in Enugu, but due to the ongoing war, the bank
was relocated several times.[20] Biafra attempted to finance the war
through foreign exchange.
(ビアフラ中央銀行が自国紙幣を印刷するのに苦労した。それは経済制裁に等しい。輪転機と紙を買うお金はたかが知れている)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nigerian_Civil_War
Aftermath and legacy
The
war cost the Igbos a great deal in terms of lives, money and
infrastructure. It has been estimated that up to three million people
may have died due to the conflict, most from hunger and disease.
(戦争の死者と餓死者の合計が300万人と推定されている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E6%88%A6%E4%BA%89
1968
年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十
字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側が、それらの救援も妨害するようになったため、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。
弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏し、そのまま崩壊に向かった。
(上の記述は、経済制裁とも兵站戦略とも取れる)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E5%85%B1% E5%92%8C%E5%9B%BD
ビアフラ戦争
ナ
イジェリア政府は直ちにビアフラを経済封鎖し、7月6日にビアフラ戦争へと突入した。ビアフラ軍は一時は西部に攻め入ることもあったが、のち防戦に転じ、
首都もエヌグからアバ、ウムアヒアへと移転を強いられ、1969年にはオウェリに移された。1970年、臨時首都オウェリが陥落してビアフラ共和国は完全
に滅亡し、ビアフラ戦争はここに終結した。
戦争末期に内陸部へ封じ込められたビアフラでは200万人といわれる餓死者を出し、「ビアフラの悲劇」と呼ばれて世界的に注目された。同共和国の滅亡後、国外に脱出した民族派などがビアフラ国亡命政府を樹立し、失われた祖国を再興させるべく現在も活動を続けている。
引用終わり
上の記述を見ると戦争そのものの死者より餓死者のほうが多い。それはナイジェリアによる経済制裁が「効果的」だったからというのが私の意見だ。
ニカラグア サンディニスタ政権の崩壊
引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2
「人
権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、
「エル・サルバドル死守」を掲げて中央アメリカに介入を始めた。また、
オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIA
などさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミス
キート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。
1984年から1985年にかけて、革命政権
「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一
次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行った
ので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミやロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊
されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)。
引用終わり
引用
コンゴ王国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E7%8E%8B%E5%9B%BD
1506
年にアフォンソ1世が即位した。ヨーロッパ留学を経験していたドン・アフォンソはポルトガル語を学んで積極的に欧化政策を採り、首都もンバンザ・コンゴか
らサン・サルヴァドール(ポルトガル語で聖救世主を意味する)に改名された。しかし、同時代中からポルトガル商人による奴隷貿易が始まり、王国を蝕んで
いった。アフォンソ1世は奴隷貿易の進行がコンゴを荒廃させていたことを鑑み、ポルトガル王ジョアン3世に奴隷貿易の停止を求める書簡を送ったが、ジョア
ン3世はポルトガルの国益のためにこの書簡を無視し、その後コンゴ王国はアフリカにおける奴隷貿易の中心地となった。
1545年にアフォ
ンソ1世が没すると、コンゴでは反乱が相次ぎ、奴隷貿易とキリスト教の布教、そしてポルトガルの侵攻によってコンゴ王国は徐々に力を失っていった。
1568年にジャガ人がコンゴ王国に侵入し、コンゴ王アルヴァロ1世が事態の収拾のためにポルトガル軍の派遣を要請したため、ポルトガル軍の実力によって
独立を回復したコンゴ王はポルトガルへの帰順を誓わされ、以後コンゴ王国はポルトガルの属国となった。
引用終わり
まだ幾らでも例をあげることができる。何しろ木村氏はご自身の主張に何ら条件をつけていないのだ。
ここで「北朝鮮への経済制裁が効いてない。その証拠に今も存続する」と反論されるかも知れない。それは現代社会では餓死者がどれだけ出ても200万人出ても経済制裁をやりとげることが難しくなったからで、経済制裁の有効性が失われた訳ではないと私は考える。
要するに日本もアメリカも韓国も本気で経済制裁をしていない。本気の経済制裁をしていないのだから、北朝鮮の体制が崩壊しないのは当然だろう。
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