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日本社会の合成の誤謬 2011.12.26
合成の誤謬とは何か?
引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC
合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、かならずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語。
引用終わり
ところで学問用語はここまで難しくなければいけないのだろうか?複合的な誤りとか複合的な間違いという平易な日本語で表現しても全く意味するところは同じなのだが。
3
年ほど前である。当時、私は2ch市況板内にある某スレの常連だった。このスレにおいて「マスコミで働くものは外国人、特に在日が多い」という明らかに事
実と異なる指摘がされた。私はあえて、フシアナサンを使用して「自分が朝日新聞社で働いた経験から言うなら、外国人はそれほどいない。むしろ特定層に媚び
る偏った日本人が記者になっていることが大きな問題なのだ」と書き込んだ。同時に私は太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」という有名な発言をスレに書い
た。
ネット限定の話になるのだが、朝日新聞の記者が全て在日であるというような荒唐無稽で根拠のない主張は今は消えている。それは多くの人が日本人新聞記者に共通する偏見を指摘したからだ。その偏見は一言で言えば左翼思考である。
私の時、朝日新聞新入社員研修は滋賀県朽木村であった。1980年3月末のことだ。ここで、松島みどり氏(朝日経済部 → 政治部 → 代議士)が大学を卒業するまで自転車に乗ったことがないことを知った。松島氏は東大経済学部卒だ。高校は大阪府北野高校である。
私はこの時に強烈なカルチャー・ショックを受けた。世の中には大学を卒業して新聞記者になるまで自転車に乗らずに生活できる階層が存在することを実感したからだ。そうした日本社会の上層に関する知識が無かったからだ。
さらに驚いたことに、ある男は自分の記者としての抱負として「自分は大学時代から成田闘争を応援してきた。記者になっても成田闘争を自分のライフワークとして取り上げていきたい」と述べた。さらに驚いたことに周囲の記者の卵たちが拍手喝采した。これはただの思想偏向だ。
では何故、朝日はこうした人物を記者として採用するのだろう?1つの理由は読者受けが良いからだ。それは端的に言ってしまえば「朝日新聞の読者は馬鹿ばかり」ということだ。
だが、もう1つ理由がある。ある種の記事を書くと、その記事を書いた記者の自宅に猫の首などが送りつけられるからだ。大体、署名記事では無いのだから記者の自宅がわかる訳がないのだが、そうしたことがおきたという。
「無言の圧迫」に負けた記者達は特定勢力に関しては触れないことにした。これにより記者達の家族生活は安定し、幸せな生活を送ることができた。だが、そのツケは偏った記事という形で日本社会に回された。
同様な事は障害者認定や生活保護認定の地方自治体窓口でもおきた。そして圧力に屈することで、彼ら自治体担当者は平和で安定した家庭生活を享受できた。だが、そのツケは全て国民に回された。
私が太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉を引用して言いたかったことはまさに、こうした出来事である。ミクロの次元での幸福最大化がマクロの非効率最大化をもたらす。まさに合成の誤謬である。
私のように内容証明郵便で辞表を送りつけて辞めればよいのだ。記者が何十人と辞めていけば新聞社も異様な事態に気が付く。自治体も不当な「支給実態」に気が付く。
誰かが馬鹿になって自分の幸福を犠牲にしてでも公の秩序を訴えない限り、永遠にこの悪循環は続くだろう。
だが、自分の幸福を犠牲にする=失業者になって家族離散、である。日本社会では、これがおきない。おきない故に既得権益が増大することはあっても減少することはない。
あるがままに言えば、そういう事なのだ。
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