何故、日本人はTV中毒になったのか?
2012.04.01

まず個人的な話を。

私 は字が汚い。メモを書くのだが自分でも読めないことが多い。自分でも読めないメモを書く意味が無いのだが、ごく希に読めることがあるためにメモを書く。し かし、これをメモと考えるからおかしくなるのであり、個人情報保全に配慮し高度に暗号化された文書と考えると時代の先端を行ってる(ような気がする)。し かし買い物リストを暗号化することにどういう意味があるのかは不明だ。

あまりの字の下手さにあきれた私はある日、梅田の丸善でタイプライターを買ってきた。せめて英文くらいは綺麗に書こう、打とうと思った訳だ。で、毎日カシカシとタイプの練習をしていた。ある日、下宿のドアがいきなり開いた。

「うるさい!オマエのタイプが迷惑なのがわからないのか!」

と凄まじい勢いで怒られた。当時のタイプライターは重い上に大きな音がした。ノイズ製造機だったのだ。ピンク・フロイドなどはタイプライターのカシ・カシ音で1曲制作している。それくらい煩かった。

こ の技能はサラリーマンになっても役に立たなかった。何故ならタイプ打ちに高給を払うほど朝日新聞社は馬鹿では無かったからだ。情勢が一変したのは富士通の ワープロ、オアシスが職場に導入されてからだった。オアシスと言えば親指シフトなのだが、1984年頃にはローマ字−カナ漢字変換機能があった。原始的な ATOKのようなものだ。

広告職場は世間で考えられているより遙かに文書を制作する。主に広告主に向けた趣意書なのだが、それまでは外部印刷に出していた。当然、時間がかかる。それが社内で数時間で制作できるようになった。これは大変な進化だった。

だ が職場の同僚はオアシスを嫌った。最大の理由は、キーボードへの不慣れだった。私はすでにタイプライターの練習で慣れており指が動いた。あまりに文書作成 が速いために「竹本、この文書を打ってくれるか?1時間後に欲しい」と言われたりした。何のことはない、広告局専属タイピストになってしまった。ここでの 教訓は日本人にとりキーボードを叩く行為は非常に敷居が高いという点だ。

欧米では年配者も普通にワードのようなワープロを使っている。これは欧米にタイプライター文化があり、キーボードを打つことに抵抗感が無いからだ。対して日本の高齢者はPC文化を嫌う。正確な理由は不明だが、まずキーボードを打つことに違和感があると私は考える。

ネッ ト環境で言うなら日本のほうがアメリカより遙かに進んでいる。だが日本のネット文化は層が薄いのだ。何故かというと、キーボードへの不慣れとFEP(フロ ント・エンド・プロセッサー、ATOKや松茸など)への違和感が大きいからだ。つまり欧米ではネット格差があるとはいえ、根底のタイプライター文化そのも のは年齢に関係なく共有されている。対して日本では世代間で大きな格差がある。

私は、この大きな世代間格差、具体的には価値観や興味の対象、が戦前世代と戦後世代で大きく異なったことが日本人をTV中毒にしたと考えるのだ。

まず戦後世代は何故、戦前世代と異なる文化や価値観を持つのか?これは簡単で戦争に負けたからだ。

正 直言うと私は対人関係は苦手であり広告営業は相当な苦痛だった。特に広告主と二人きりの場(会社応接間など)で対話がとぎれ、不気味な沈黙が続くのは耐え 難い体験だった。同じことは日本の家庭にも言えたはずだ。つまり親子の間で共通の話題が少ないのだ。同じような世代間格差は欧米でもあった。だが欧米の格 差は日本との比較で小さかった。

何故、そうした世代間格差(文化や価値観が異なること)が日本人をTV中毒にしたのか?TVをつけていれ ば会話をする必要が無いではないか!少なくとも不気味な沈黙は避けることができる。TV番組が面白ければそれでよし、下らないなら下らないで何かの話題に なった。それは家庭における気まずい沈黙をさける最も簡単な手段だった。

つまり私の意見では敗戦後の日本において文化や価値観の断絶がお き、欧米との比較で家庭内対話が減少した。対話が減少した結果、沈黙の時間が増えた。そうした沈黙をとりあえず解消する手段としてTVが選ばれたと私は考 えるのだ。ここでのTVの役割は娯楽を提供することですらなく、ひたすら音声と映像で沈黙を塗りつぶすことにあった。

そうした過程が50年以上、続き日本人は世界に希なTV中毒民族になってしまったのだ・・・・