人を最も傷つけるのは善意である
2012.06.04

さて大学を卒業する際に大変な就職難にあった。1980年と言えば、日本経済が石油ショックから回復しバブル経済に向かう最初の一歩だった。当然ながら、私の周囲を見渡しても大学4年の終わり近くになって、就職先が見つからないのは私だけだった。

ソ ニーとか富士通と言った普通の企業ですら一次面接で落とされた。落とされる理由がわからなかった。当時、ほとんどの企業は1次面接で身上書を出すことを要 求した。この身上書を出す時点と不合格通知の時点がほぼ同じなので私は、兄が精神障害者なので差別されているのだろうと考えた。

ただ、そうした就職差別それ自体は最初から予想しており、対策として英語翻訳で食べていける努力をしていた。私を本当に傷つけたのはむしろ周囲の善意だった。

例えば下宿のおばさんは

「竹本さん、あなたは思い上がっていませんか?これまで色んな学生さんをお世話してきました。学生運動で警察のお世話になった人もいました。そういう人もちゃんと就職しました。兄さんが原因で就職できないというのはただの言い訳です」

と言った。同様な主旨の説教は他にも何回か受けた。正直、言うと、こうした「善意のアドバイス」が私を最も苦しめた。何故、善意のアドバイスが悪意の差別より大きな心の傷を作るか?

1.善意からの意見の場合、相手が善意で主張しているのがわかるから反論できない

2.反論できないことが大きな挫折感を生む

3.20数人の学生がたむろする下宿の経営者の意見なら、それはほぼ社会の主流派/良識派の意見だろう

4.ということは、精神障害に関する差別を主張すればするほど社会から疎外される

5.ということは日本社会に自分の居場所は何処にも無いようだ

ところで大家さんの主張は本当に正しかったのだろうか?

朝日新聞社に入ったのは偶然としよう。しかし1980年大卒定期入社組140人程度のなかで最初に役職者になったのは実は私なのだ。

班 長職と呼ばれる。これは通常の会社の係長に相当する。記者において係長という役職はない。だが給与体系は、通常の会社と同じで、係長相当、課長相当といっ た具合に上がっていく。それを何級職かで表す。従って、全く同じ仕事をしていて役職が無くても、課長相当記者と係長相当記者の間には給与の違いが存在す る。

人間を本当に傷つけるのは差別ではない。差別なら、差別に対して「闘おう」という気力が湧いてくる。人間を本当に傷つけるのは誤った 理解に基づく善意の行動/言動である。彼らの主張は完璧に間違っているのだが、善意で行動してるのだから、そこでは最初から反論が封じられている。

そうした誤解に基づく善意の行動の積み重ねが私の心に大きな傷を作ったのは事実だ。