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押し紙との出会い 2012.07.04
1980年に朝日新聞社に入る前にすでに押し紙の存在は知っていた。意外なことに、広告局で働くようになっても、なかなか実態がわからなかった。下の話は1981年の体験だ。
元
新聞社社員の私だから「押し紙は確かに存在する」と自信を持って言える。
何故なら販売局の担当員(割り当て地域での新聞販売店を管理する担当者)からハッキリ聞いたからだ。だが、その時も「本当の部数」や正確な押し紙比率はわからなかった。残念ながら、2012年現在の押し紙比率はもっとわからない。
新聞社は押し紙に
関しては相当に神経質になっていた。個々の販売担当員は自分の受け持ち地域での正確な部数と押し紙しかわからないようなシステムが作られていた。
例えば東京本社で
の正確な押し紙比率は販売部長クラスにならないとわからない。そして全国の押し紙は販売局次長クラスにならないとわからない、そうしたシステムのようだ。
実は私が押し紙問題に興味を持つようになった最初の象徴的な事件がある。それについて書いてみよう。
名古屋の八事という地域に住んでいた時のこ
とだ。私は地下鉄鶴舞線で会社に通勤していた。新聞社は一般に夜が遅いために出社時間も遅い。広告の場合、10時だった。これにより通勤ラッシュから逃れ
ることができた。
ある日の通勤途上の事だ。私は背広を左脇にはさみ朝刊を読んでいた。新聞を読むことは当然、仕事の一部だからだ。
杁中駅(現在は「い
りなか」と表記)でやかましい男4人が入ってきた。最初の男が私とぶつかり、私は自分の背広を床に落とした。 後から入ってきた3人は私の背広をド
アマットのように踏んづけて車両の奥に入っていった。
そんなに混んでなかったとはいえ、地下鉄の中で新聞を読んでいた私に幾分か責任があるので私は文句を言わ
なかったが、乗客はみんな背広を拾いあげる私と4人組をかわるがわる見た。
背広というのは靴の泥をとるのが目的ではないのだ。4人組の行動は明らかに
異常だった。さらに当時の私は拓殖大空手部の主将をやりましたと言えば、ほとんどの人が信じるくらい胸の筋肉が盛り上がっていた。地下鉄の乗客は喧嘩が始まると
思った訳だ。
楽器演奏者は指を痛めるような自殺行為はしない。元々、喧嘩をしない主義だ。
私は彼らの後をつけてみ
ることにした。どこの「組事務所」に入るか確認しようと考えたのだ。私はずっと後をつけたのだが、呆れたことに彼らは朝日新聞名古屋本社のビルに入っていっ
た。
受付嬢とは顔見知りらしく何かの会話を交わしているのが窓ガラスの外から見えた。彼らがエレベーターに乗り込んだところで私も受付フロアに入った。受付嬢への挨
拶もそこそこに、彼らがどのフロアで降りるかを確認した。3階だった。朝日新聞社名古屋本社では1階は受付、2階は広告局、3階は販売局、4階以降は編集局だった。
私
がどこの暴力団の組員かと思った連中は、広告局の1階上にある販売局が契約している「販売拡張員」だった。さすがに呆れた私は昼休みに販売局に行った。
同期入社の男がちょうどいた。今朝の事件の顛末を話すと彼は「悪かったね、でもウチはアレだからさ」と意味不明な言い訳をした。その時に、この同期入社の男Hから押
し紙は確かに存在するが「ここでそういう話題を持ち出さないでくれ」と釘を指された。販売局内部でも押し紙は公然と話す話題では無いようだ。
いや、東京本社にいた時にすでに、同期入社販売局配属のものから全国規模での押し紙
の存在については、そこそこ聞いていたので驚きはしなかったが、他人の背広をドアマットのように踏み歩く連中を本当に拡張員として使っていることに
は驚いた。
広告は広告で別の暗部があったが、少なくとも暴力がからむことはなかったのだ。
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