平成の大政翼賛会
パート11  何故、日本人はノーベル経済学賞を取れないのか?

これは考えてみると奇妙だ。何故なら、かつて日本人は世界最大規模の先物市場を運営していたからだ。大阪(大坂)堂島の米相場である。

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95

歴史

差金決済を含んだ世界初の公認の先物取引は、1730年(享保15年)に幕府公認として組織・整備されたものとして大坂にて堂島米会所として誕生した。

これ以前に、(1531年)ベルギーで世界初の商品取引所が開設されたが、ここでは現代でいう現物取引の先渡取引が行われていた。

引用終わり

堂 島の米相場が当時、世界最大規模でありシステムとして最も進んでいたことはずっと知っていたが、誰が利用しているのかは不明だった。どうやら利用者は藩/ 武士であったようだ。江戸時代の武士の給料は米俵で決められていた。当然ながら、給与は米が豊作かどうかに依存する部分があった。ここで自分たちの給料を 確定するために先物取引が使用された。

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80

歴史

幕 府が米価下落への対策に苦慮していたとき、江戸の三谷三左衛門、中島蔵之助、冬木彦六の3名の取り計らいで、米座御為替御用会所が設立され、3名が取締の 任にあたった。しかし、正銀正米の売買だけでなく、廻米の入津季節以外にも1年を通じて市場を繁栄させようと、大坂の米商備前屋権兵衛、柴屋長左衛門が売 繋買繋の方法を案出した。これは建物米を定め、限月限日を建て、その期限内に延売買を行うものである。しかしその後取引が複雑化するとともに支配人を置く こととなり、相当の給銀を与えて消合(けしあい。売買解除)に従わせた。この支配人が後の遣来(やりくり)両替、すなわち米方両替である。

享保6、7年頃、幕府は不正取引のかどで延売買を禁じたが止まなかったので、7年(1722年)12月、1000石以内の延売買を許し、9年(1724年)2月、空米相場をも認めた。

同 年3月、大阪を襲った大火・妙知焼のために暫時休市となった。この機に乗じて江戸商人は3回にわたって米相場会所設立を願い出た。この願い出は許可された が、このために堂島米仲買などは江戸商人に支配されることになり、収益の一半を持ち去られた。これを遺憾とし、田辺屋藤左衛門、尼崎屋藤兵衛、加島屋清兵 衛の3名を総代として江戸に派遣し、江戸町奉行大岡忠相に訴えさせた。享保15年8月、この訴えは幕府の受け容れるところとなり、米市場は再び大坂商人の 手に戻り、堂島市場においてのみ帳合米の取引を公許することとなった。

引用終わり

1722年にすでに先物のインサイダー取引が記録されているのだ。英語ウィキペディアは少し異なる説明をしている。

引用

http://en.wikipedia.org/wiki/Futures_contract

Origin

Aristotle described the story of Thales, a poor philosopher from Miletus who developed a "financial device, which involves a principle of universal application". Thales used his skill in forecasting and predicted that the olive harvest would be exceptionally good the next autumn.

Confident in his prediction, he made agreements with local olive press owners to deposit his money with them to guarantee him exclusive use of their olive presses when the harvest was ready. Thales successfully negotiated low prices because the harvest was in the future and no one knew whether the harvest would be plentiful or poor and because the olive press owners were willing to hedge against the possibility of a poor yield. When the harvest time came, and many presses were wanted concurrently and suddenly, he let them out at any rate he pleased, and made a large quantity of money.

引用終わり

英語ウィキペディアの考え方は、先物は将来 の金銭受け渡し条件を定めた契約であるというものだ。その意味ではテールズ(Thales)という古代ギリシャの哲学人が、来年のオリーブの収穫に対し農 家と契約を結んだのが最初の先物/金融派生商品であるという説明は妥当だと思う。

では誰が大坂堂島の米相場を殺したのか?これは第2次大 戦中の政府だ。米不足の中で市場が停止した。なお、この頃、同時に1県1紙という新聞制限制度も敷かれた。紙不足の中で、東京と大阪以外の地域では1つの 新聞の発行しか認められなかった。1県1紙は敗戦とともに廃止されたが、今でも中日新聞などの強大な地域紙として影響は残っている。

こうした商品先物市場の重要性に気が付いたアメリカはCMEを創設した。CME創設時に堂島米相場に調査員を派遣し、運営実態を聞いた。これは本当の話である。

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%
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概要

1898 年に、シカゴ・バター・卵取引所(Chicago Butter and Egg Board)としてシカゴ商品取引所から独立し、1919年にシカゴ・マーカンタイル取引所に改組した。 1970年代にレオ・メラメド(Leo Melamed)によって大胆な改革が行なわれ、先物取引をはじめとしたデリバティブ商品の上場に積極的に取り組み、現在ではその取引量は世界最大規模で ある。日経平均先物も24時間取り扱っており、日本国内の投資家の注目も高い。

引用終わり

幾分かはアメリカの国策組織のようだ。

何故、シカゴなのか?理由は不明だがブラック・ショールズ式を使いオプションの理論価格算出を可能にしたのがシカゴ大学の教授達だからと私は考える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83
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ブラック-ショールズ方程式(ブラック-ショールズほうていしき)とは金融派生商品の価格づけに現れる確率微分方程式(およびその境界値問題)のことである。

ブ ラック-ショールズモデルは1973年にフィッシャー・ブラック (Fischer Black) とマイロン・ショールズ (Myron Scholes) が共同で発表した理論であり、このモデルを使って当時の懸案であったヨーロピアン・コール(およびプット)オプション(満期日にのみ権利を行使できるオプ ション)のオプション・プレミアムを計算してみせた。後にロバート・マートンが彼らの方法に厳密な証明を与えた。これらの理論は現代金融工学の先がけと なったとも言われる。

ブラック-ショールズ方程式はヨーロピアンオプションのオプション・プレミアムの計算には使用できるがアメリカンオ プションには使用できない。アメリカンオプションとは、購入日から満期日までのいつでも権利行使することのできるオプションのことである。満期日のみ行使 可能なヨーロピアンオプションに比べて、アメリカンオプションは権利行使日が不確定なため、価格付けが難しく、その分アメリカンオプションのプレミアムは 割高になっている。良い計算方法が理論化できておらず格子モデルや Brennan-Schwartz アルゴリズムなどがよく用いられている。

中略

米 系投資銀行ソロモンブラザーズ(現シティグループ)は、1980年代には既にこのモデルを実際の金融商品のプライシングに応用していたと言われている[要 出典]。オプションの理論価格算定方式が数学上非常に明晰な形で提供されたことはSPAN証拠金(1988年にシカゴ・マーカンタイル取引所が開発したリ スクベースの証拠金計算方法、Standard Portfolio Analysis of Risk)算定方法に決定的な示唆を与えている。

投 資戦略としてはオプション価格の理論値が得られることから、現実の取引価格との乖離が裁定取引上の利益目標となり得ると想定されたが、実際にはテイルリス クに対する脆弱性などが指摘されており、LTCM破綻という現実の失敗によりその投資戦略上の権威は大きく毀損されてしまった。投資中に発生するイベント の定性情報を無視したポートフォリオ戦略(将来何が起きるかは知りえないことを前提とした投資戦略)としては依然として強力であり、それまでアナロジーや アフォリズム、アノマリーやテクニカル分析などといった従来の「投資の慣行」を超え、確率論からの記述が与えられた貢献は大きい。

引用終わり

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%8
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フィッシャー・ブラック

フィッ シャー・ブラック(Fischer Black, 1938年1月11日 - 1995年8月30日)はアメリカの数学者、経済学者。ワシントンD.C. 出身。オプションの価格算定式である ブラック-ショールズ(Black-Scholes)方程式の作者のひとりで、ブラックの強いリーダーシップの下、定立されたとされる。また、ブラック- ダーマン-トイ (Black-Derman-Toy) のオプション評定価格モデルの共著者(1990年)でもあった。

現代ファイナン ス理論において、ブラック-ショールズ方程式はCAPM理論、モジリアニ-ミラー理論と並ぶ三大成果の一つといえ、共同研究者である マイロン・ショールズ (Myron Scholes) は、その式を厳密に証明したロバート・マートン (Robert C. Merton) と、1997年にノーベル経済学賞を受賞した。しかしながら、ブラック本人はその2年前、ガンで他界していた。

1964年に応用数学で ハーバード大学から博士号を受けた後、アーサー・D・リトル社に職を得る。そこでCAPM理論の創始者の一人ジャック・トレイナー (Jack Treynor) と出会ったことが、ブラックの金融工学への途を開くこととなった。1971年実業界から研究者の途に戻り シカゴ大学教授、MIT スローン経営学大学院教授を歴任。 しかし、1984年には、ゴールドマン・サックス社に招聘されるなど、自己の理論の実践にも並々ならぬ興味を持ち続けた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%
83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA

マイロン・ショールズ(Myron S. Scholes, 1941年7月1日 - )は経済学者。ブラック-ショールズ方程式の有名な起草者の一人。現在スタンフォード大学教授であり、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院でも教鞭を執った。

略歴

1941年、カナダのオンタリオ州ティミンズ生まれ。
1951年、家族はオンタリオ州ハミルトンに移る。
1962年、地元のマックマスター大学を卒業。
シカゴ大学において、1964年MBAを取得。
1968年、MIT Sloon School of Managementに移る。
1969年、シカゴ大学より博士号を取得。
MITスローン・スクールで研究を続け、フィッシャー・ブラックと出会い、1973年有名なブラック-ショールズ方程式を完成させることとなる。
1973年、シカゴ大学(University of Chicago Booth School of Businass)に移る。
1981年〜1996年、スタンフォード大学教授として教える。
1997年、ノーベル経済学賞を受賞。

引用終わり

すでに書いたように、日本のバブル崩壊の引き金を引いたとまで過大評価されているのがソロモン・ブラザーズだ。またゴールドマン・サックス、シカゴ大学と役者が揃ってきた。

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%E5%A4%A7%E5%AD%A6

シカゴ大学

シ カゴ大学(The University of Chicago)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市にある私立大学。世界でトップレベルといわれる大学の一つ。 設立当初から研究に重点が置かれており、ノーベル賞受賞者を多数輩出している。特に経済学の分野では新古典派の拠点の一つとして知られており、同校の卒業 生である「シカゴ学派」はしばしば政策立案や遂行に登用されている。大学のモットーは、"Crescat scientia; vita excolatur (知識を創出し人類の生活を啓発せよ)".


歴史

アイヴィー・リーグの一校であるブラウン 大学に同名の息子を送った資産家のジョン・D・ロックフェラーが「中西部にもブラウンの様な卓越した学問の場が必要」と莫大な資金提供をし1890年設立 した。初代学長ウィリアム・ハーパーは1906年に、49歳で在職死するまで学長をつとめ、大学の基礎を築いた。

マンハッタン計画においては、グレン・シーボーグ率いる化学者らが、シカゴ大学において、当時製造されて間もなかったプルトニウムの研究を行った。1942年12月2日には、エンリコ・フェルミ率いる科学者のチームが、世界初の核反応実験に成功した。

その他にも、放射性炭素年代測定法の開発、ジェット気流の発見、レム睡眠の発見、ユーリー-ミラーの実験の実施、ベトナム戦争にて用いられた枯葉剤の発明等がシカゴ大学で行われた。

2007年には、匿名で1億ドルにのぼる寄付が贈られ、これは学生の奨学金の補てんに使われる見通しである。

 評価
 
ノー ベル賞受賞者を87名輩出しており世界で最も評価が高い大学の一つである。 2009年のTimes Higher Education-QS World University Rankingsで7位。 シカゴ学派で有名な経済学は2008年の米U.S. News & World Report誌で全米1位。 更に、ビジネススクール(Booth)も2008年の米BusinessWeek誌で全米1位。 ロー・スクールはJ.Dが2011年の米U.S. News & World Report誌で全米5位、LL.Mが2011年のAUAP LL.M Rankings©で11位。 学部でもシカゴ大学は米U.S. News & World Report誌の"America's Best Colleges 2012"で全米5位にランクされている。その他にも、政治学全米7位、社会政策学全米3位、数学全米TOP5、神学全米1位、メディカル・スクール米 U.S. News & World Report誌全米13位、シカゴ大学病院は2007年News & World Report誌 全米病院ランキング17位。

関係者

かつて所属した学生、教授、研究者をすべて考慮すると、シカゴ大学は総勢87名のノーベル賞受賞者を輩出している。

バラク・オバマ(第44代アメリカ合衆国大統領、元イリノイ州選出上院議員、シカゴ大学ロー・スクール教員(休職中)。)

ミシェル・オバマ(バラク・オバマ夫人。元シカゴ大学病院副院長、元シカゴ大学学生サービス部副部長)

ポール・ウォルフォウィッツ(米国の政治家。元世界銀行総裁)

ジェームズ・マッキンゼー - 元シカゴ大学ビジネススクール(GSB)教授、マッキンゼー・アンド・カンパニーの創始者。

白川方明(第30代 日本銀行総裁)

引用終わり

ここでは陰謀論を避けるために「ジョン・D・ロックフェラーが創設した」という部分は深く考えないことにする。

奇妙な形で日本人がなした経済学への貢献が抜けている:

1.何故、過去において世界最大規模の先物市場であった堂島の米相場が雲散霧消したのか?

2.確立微分方程式を考え出した日本人、伊藤清は何ら国際的な賞を受けてない。対して確立微分方程式を応用したブラック・ショールズはノーベル経済学賞を受けている

引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%B8%85

業績

確 率微分方程式を生み出した。伊藤の補題(伊藤の定理)でその名を知られる。さらに、確率積分を計算する上で重要な伊藤の公式(伊藤ルール)は確率解析学に おいて革命的な公式といえよう。特に伊藤の公式は確率解析学における基本定理で確率積分の計算手段を示したもので、この公式無しでは確率解析における計算 はほぼ不可能といえる。

中略

デリバティブの一種であるオプションの価格評価式であるブラック-ショールズ方程式の導出は 伊藤の補題(伊藤のレンマ)が基礎となっており、同方程式の考案者としてノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズは清に会った際にわざわざ握手を 求め伊藤の定理に敬意を表したという。伊藤自身は経済学に無関心で、ある経済学者の集まりに出席した際にあまりの歓迎ぶりに当惑のあまり、そもそもそんな 定理を導いた記憶はないと言い張ったというエピソードが伝えられる。

引用終わり

最初の「何故、日本人はノーベル経済学賞を受けられないのか」という題に戻る。

私の推論は以下の通りだ:

1.日本人経済学者、宇沢弘文はかつてシカゴ大学教授であった

2.宇沢は当時、シカゴ大学の主流であったミルトン・フリードマンの考えに異論を唱えた

3.ノーベル経済学賞は実務的な賞と考えられる

4.宇沢がいた頃、BS式をベースに金融派生商品が爆発的に普及した

5.従って宇沢は金融業界から見ると賞を与えたくない相手であった

6.宇沢がフリードマンに異論を唱えたために日本人はノーベル経済学賞の対象から外れた

というものだ。宇沢は以下のように主張している:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%A2%E5%BC%98%E6%96%87

宇沢(宇澤) 弘文(うざわ ひろふみ、1928年(昭和3年)7月21日 - )は、日本の近代経済学者(マクロ経済学)。東京大学名誉教授[1]。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められた。

1983 年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章。Econometric SocietyのFellow(終身)。1976年から1977年までEconometric Society会長。経済学者の浅子和美、吉川洋、小川喜弘、清滝信宏、松島斉、宮川努、小島寛之、ジョセフ・E・スティグリッツは宇沢の門下生。数学者 の宇澤達は長男。

http://en.wikipedia.org/wiki/Hirofumi_Uzawa

Hirofumi Uzawa (宇沢 弘文, Uzawa Hirofumi?, born July 21, 1928) is a Japanese economist, professor emeritus of Tokyo University, and a member of the Japan Academy.

Uzawa was born in Yonago, Tottori. He majored in mathematics at University of Tokyo, and went on to its graduate school, obtaining a doctorate in Mathematics. He went to study Economics at Stanford University in 1956 with Fulbright fellowship, and became an assistant, then assistant professor, and then associate professor at Stanford. He afterwards was assistant professor at the University of California, Berkeley and professor at the University of Chicago, and later assumed the position of professor of the Department of Economics at Tokyo University in 1969. He also taught at Niigata University, Chuo University, and United Nations University.

Uzawa is currently serving as senior fellow at the social, commonness, and capital research center of Doshisha University. He held the position of the chairman of the Econometric Society from 1976 to 1977. He became a member of the Japan Academy in 1989. He has been row in Japanese Culture Merit in 1983, and won the Order of Culture in 1997.

Uzawa initiated the field of mathematical economics in postwar days and formulated the growth theory of neoclassical economics. This is reflected in the Uzawa two-sector growth model and the Uzawa condition, among others.

Joseph Stiglitz did research under Uzawa at Chicago from 1965 to 1966.

引用終わり

宇沢がシカゴ大学教授であった時に、強烈なフリードマン批判を行ったと本人は主張している。だが、宇沢の主張には誇張があると言う人もいる。

だが、英語版ウィキペディアが書いているようにジョセフ・スティグリッツは宇沢の弟子だ。弟子がノーベル経済学賞を取った割には師匠である宇沢は何ら国際的な賞を受けていない。これは奇妙だ。

残念ながら、何故、日本人でノーベル経済学賞を受けた人がいないのかは証拠を出して証明できなかった。だが、金融工学/シカゴ学派には日本から見ると奇妙な歪みがあるように思える。その歪みにより日本人は「システム」からはじかれているというのが私の考えだ。