音楽も武器である
2012.10.09

私が知る限り、音楽が武器だと最初に主張したのはフェラ・アニクラポ・クティだ。

http://www.youtube.com/watch?v=JRwCxLvNwmA

このドキュメンタリー映画の最初の部分で「音楽は武器だ、反抗するものの武器である」とフェラはハッキリ言っている。

こ れは奇妙な発言だ。フェラがナイジェリアにおいて反政府運動を指導したのは事実であり、オバサンジョ大統領の命令で軍隊がフェラのアジトを襲撃したことも ある。だがフェラ自身は確か40人奥さんを持っていた。フェラが40人奥さんを持つということは39人のナイジェリア人が奥さんを持てないということだ。 フェラの人権意識には明らかな歪みがある。

だが最近になり私は勘違いをしていたのではないかと考えるようになった。フェラ・クティが言いたかったのは「オレの音楽はナイジェリア政府と戦う武器だ、バッハやモーツアルトはそうじゃない」と言うことでは無いだろうか?それなら確かに論理的に筋が通る。

大体、既成の言論、特に新聞やTVなどが完璧に人畜無害になった。むしろ洗脳兵器だ。朝日新聞の社説などはPC上でプログラムを走らせ書いてるのでは無いかと思えるくらい「スクリプト」になってきた。つまり、今ある言論や音楽は決して武器ではない。

では何が違うか?これは何らかの新鮮さがあるかどうかではないだろうか?音楽、文章、マンガ、アニメでもそこに新鮮さがあるなら、人々の注意を惹く。人々が何らかの形で気にとめる文化は武器になりうる。何故なら、人々を感情のレベルで動かすからだ。

新鮮な文化にはすれてない鋭さが残っている。感性に訴える部分がある。それが政治的な主張と結びついた時に「武器」になりうる。フェラ・クティは恐らくそう言いたかったのだろうと私は考えるのだ。

この文脈で思い出すのはアメリカが中部アフリカ沖合の島であるサントメ・プリンシペにVoice of Americaの中継基地を置き、ナイジェリアやコンゴを対象にジャズやファンクを流した歴史的事実だ。

アメリカは戦い方がうまいなと私は思う。何故なら、西アフリカから中部アフリカにかけた地域でジェームズ・ブラウンのようなファンクを嫌う人がほとんどいないからだ。

追記

読売新聞はどうか知らないが朝日新聞の社説を書いてる人、つまり論説委員はPC上のプログラムでは無く生身の人間である。

昔、 広告営業をやっていた時に土木担当を5年くらいやった。土木というのは特殊な世界であり、いったん担当になると抜けられない。この時に土木担当論説委員と 良く話をした。何故なら、土木における最大の発注主は国であり、中部地方建設局長を「その気にさせる」ことが広告募集の上で必要だからだ。

という訳で私は朝日新聞論説委員が生身の人間であると知っているのだが、実際に論説がスクリプト化しているので批判している。