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牡蠣の背徳 2012.11.18
引用
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2912274/9851985
【11
月17日
AFP】肉を食べることの善しあしは、主に栄養士たちが話題にする問題だろう。だが、インドで出版された一冊の教科書が、この問題に明確な見解を示したこ
とで注目されている。肉類中心の食生活は、人を嘘つきにし、盗みを働かせ、さらには性犯罪まで犯させるというのだ。
インドのニュース専門チャンネル、NDTVが報じたところによると、この独特な説をたてているのは、11歳の児童向けの教科書。保健衛生から性教育、運動までに関する指導書だ。
教
科書は菜食主義でない人間について、「簡単に人をだまし、嘘をつき、約束を忘れ、いい加減だ。また、口が悪く、盗みを働き、けんかをし、暴力に頼り、性犯
罪を犯す」などと批判。食肉については、「肉の味を生み出しているのは、ほとんどが老廃物」だと指摘する一方、日本食は菜食中心だと称賛している。ただ、
日本人が大の魚好きであることには触れていない。
引用終わり
私は菜食主義を目指しているが現状、肉を食べている。特に魚肉はたくさん食べている。だから上の主張に簡単に賛成はできない。ただ、冬が近づき、ここ数日考えていたことに近い部分があるので「牡蠣の背徳」という題名で文章にしたい。
ある程度のレストランでは生牡蠣を出す。これは数分前までは殻の中で生きていた牡蠣を無理矢理、取り出し、スプーンですくい、ソースをかけ、生臭さを消すために白ワインで流し込むというものだ。
ここでの牡蠣はトロッとした独特の食感がある。味にも滋味がある。つまり新鮮な栄養分を感じさせる。そして、リースリングという葡萄の品種を原材料にした白ワイン(リーブフラウミルヒ/マドンナ)とよく合う。で、それで良いのかと私は思うのだ。
牡
蠣は生き物だ。人間が生きるために他の動物を食べるのはしかたない。食べないと(通常の環境では)生きていくことができないからだ。だが、食べられる動物
は人間に対して抵抗をすべきだと私は思う。それは血を流すでも良いし、泣き声をあげるでも良い。何らかの人間に対する抵抗の意思を示すべきだ。この点で私
は牡蠣に対し腹を立てるのだ。
何故なら、牡蠣は生きたまま、人間の口に運ばれ、歯でかみ砕かれ、白ワインとともに胃に流し込まれる過程で
1.血を流さない 2.一切、抵抗をしない 3.何ら声を上げない
私はこういう牡蠣の特性に大きな不満を持つ。生物なら、動物なら自分が人間に食べられる時に何かの抵抗をすべきだと思う。実際、ほとんどの食材はしている。
例
えば寿司や刺身である。自分で魚をさばく人は当然、理解しているが、生の魚をさばくのは相当に大変な作業だ。そこに大きな心理的な抵抗感と不快感がある。
そして、それと相反する寿司や刺身のうまさがある。つまり、寿司や刺身は「自分が何をやった結果として美味しい食事にありつけるのか」を理解させるという
意味で理想的な食事だと思う。
外食で寿司や刺身を食べると「何が魚におきたのか」がわからない。そこが不安だ。同様なことは霜降り牛肉に
も言える。十分に血抜きがされた霜降り牛肉は何かの芸術作品のように美しい。それが元々、牛の身体の一部だったことを感じさせない。だが、感じさせるべき
だと私は思う。何故なら、「他の動物を食べないと人間は生きていくことができない」というのは普遍的な真理だからだ。
何故、私は牡蠣が背
徳、つまり道徳に反すると考えるかというと「人間は他の動物を食べて生きていく」という根本的な原則抜きに、牡蠣が純粋な食材に成り果てているからだ。そ
うじゃないだろう、動物なら人間に食われることに何か抵抗をするべきだ。それは血かも知れないし、泣き声かもしれない。
だが無抵抗に人間に食べられてしまう牡蠣という動物のありかたに私は決して納得できないのだ。
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